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いいなぁ。…そう思っていたら仕切りの向こうから顔が覗いた。
「闘病、頑張って。じゃあ、さようなら」
かけられる声に、別れを告げた相手の顔に、俺はただただ目を見張った。
そこにいたのは俺だった。顔も声も何もかも俺自身だった。
その相手が会釈を一つして去って行く。
…どういうことだ?!
隣に、俺とそっくりな人物が入院していたのか? もしかしたらそういう偶然もあるかもしれないが、普通に考えたらありえない。
そもそも、相手は俺を知っている様子だった。でも、仕切り一枚で隔てられているだけだから、覗こうと思えばいつでも隣を覗けるけれど、隣人と顔を合わせた覚えなんてない。そもそもやりとをした記憶も…。
ふと、何かが意識の片隅をよぎる。
あれは入院したその夜のこと。
生まれて初めての手術を終えた俺は、麻酔が切れて、予想以上の痛みに呻いていた。その時に隣から声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、まあ…」
「随分お辛そうですけど、痛みますか?」
「はい」
「代わってあげられるものなら代わって差し上げたいくらいです」
「…ですね。代わってもらいたいくらいです」
たったそれだけのやりとり。それが鮮明に記憶に甦る。
何かに弾かれたように、俺は自分の顔を触っていた。
触れば判る。これは自分の顔じゃない。それ以前に、この骨ばった手は俺の手じゃない。
方法は判らない。だけど確信する。俺は、あの時声をかけてきた隣人と入れ替わった。
名前も知らない。素性も知らない。そもそも顔すら見たことのないどこかの誰かと入れ替わり、俺はそいつの体で今日から闘病を始めるのだ。
「………」
上げた叫びが咳に飲まれる。その苦しさの中で、この肉体がもう長くないことを悟る。
早く元に戻らないと。これが誰なのかを突き止め、元の自分に戻らないと。
看護師を呼ぼう。隣人のことを聞こう。だけどもう、ナースコールに手を伸ばす力がない。
咳が溢れる。苦しい。
こんな、誰かもしれない相手になったまま死にたくない。俺は、元に…俺に、戻、るん……。
入院…完
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