第1章

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 いちいちもっともな言葉だ。若いのになんて達観しているんだろう、と感心すると同時に、いつでも前向きな発想ができるということはまさに私に不足しているものであり、そんな美点を持つ彼に対して憧れは強まるばかりだった。そしてそんな言葉がさらりと言えるような彼は能力と境遇に恵まれた存在で、そのことに対する嫉妬心もどこかにあったと思う。前途洋々たる彼と私など釣合うはずもなかったのだが、思いは募り、彼に出会うために私は今まで独りでいたんだ、とさえ思った。  「僕、会社辞めるんです」 彼がそう言ったのは次の春だったか。英国に留学してMBAの資格を目指すという。旅立つ彼に私は自分の気持ちをつづった手紙を渡した。渡英した彼からは何度かメールが来たが手紙のことには一切触れず、近況と私への励ましの言葉が書いてあった。そして一年後に帰国した彼は目標の資格を取得し、さる大手企業に再就職したと風の噂に聞いた。  電車が金沢文庫に着いた。去っていく車両を見送る私は病院帰りの疲れた主婦である。冴えない姿で彼に近づいて声をかけることはできなかった。いや、彼がFであったかどうかさえもう定かではない。せつない片想いの記憶だけがホームで風に吹かれていた。
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