第1章

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「次は金沢文庫」という車掌のアナウンスで目が覚めた。手前の上大岡で各駅停車に乗り換えなければならないのに乗り過ごしてしまった。  朝早くから検査のために病院に行き、血液を採られたり注射を打たれたりで疲れてしまい、頭もぼんやりしていた。  昼間の電車はまばらに立っている人がいる程度の混み具合である。次で降りて引き返さなくてはと思いながら車内を見るともなく見ていると、二つ隣のブロックの、シートの向こう端に足の長い青年が座って本を読んでいるのが目に入った。Fに似ている、と思った。  Fは職場の後輩だった。ある百貨店の支店に長く勤務していた私がFと出会ったのは彼が本店から異動してきたからである。レディースファッションを扱う売場では私が一番の古株で、彼は私より十歳ほど若かった。  メンバー達は仲がよく、仕事の後に飲みに行くこともしばしばだった。今よりも少しばかり景気の良い時代で皆の顔にも明るさがあったと思う。  Fは頭の良い青年で、穏やかな性格だった。プライドは高いに違いなかったがでしゃばることもなく、皆に良く思われていたのではないだろうか。29歳独身で、アイドル的存在だった。女性の多い職場で男性社員は優遇される傾向にあり、販売職で採用された私よりもはるかに短い経験で、同じリーダー職についていた。仕事上はライバルでもあり相談相手でもあったわけだ。  そんなFのことをいつから好きだと思うようになったのかは分からないが、一年も一緒に働くうちに私の彼に対する憧れの気持ちは強くなっていた。  春、定期異動の季節に私は思いもしなかった部署に異動になった。初めて経験する事務職で、総務部の奥にある小さな金庫室で来る日も来る日も売上金の管理と集計に追われる毎日に変わった。華やかなファッションの世界からの突然の異動にショックを受けていた私を元気づけようと、後輩達が時々誘い出してくれ、そんな席にはいつもFがいた。  慣れない地味な仕事に鬱々としていた私は彼に愚痴を聞いてもらうことが密かな楽しみになった。彼の答えはいつも紳士的で論理的な内容だった。いわく 「どんな時でも明るく楽しく一所懸命に生きていけたらいいですね。僕はいつもそうありたいなと思っているんですよ」 「思うようにならない時こそ自分の真価が問われるんじゃないかな」 「同じ事が何十年も続くわけじゃないから気楽にいきましょうよ」
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