第1章

2/7
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 記憶喪失と診断されたのがつい二日前。その間、仕事のことを失念して放ったらかしにしていたぼくがいけないんだ。 「そう、ですか……。いえ、こちらこそご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。今までお世話になりました」  リストラを通告されたその電話を切ってから、ぼくは病院のロビーに戻ってしばらく自失した。これで三つ目となる喪失に、ぼくの心は吐き戻したばかりの胃袋のように空っぽになってしまった。  リストラの電話の前には恋人だったらしい人から「ちょうど冷め始めてたところだからこのまま別れましょ」と、訳もわからないままふられた。親への連絡を試みたところ、ぼくの両親はすでに他界しているという事実に直面した。しかしそれは二〇半ばにしてはあまりに早すぎる境遇だと思い、また現状に対する困惑も相まってその事実を掘り下げっていったところ、両親の死因はいまから五年ほど前に起きた事故だと知った。  すると記憶がないはずなのに果てのない暗闇に放り込まれたような錯覚に陥った。そこへリストラ話を突きつけられた。そのときぼくは、社会の枠の中でたったひとり隔絶されたのだ。水の中を重いあぶくとなって沈みながら、ぼくはやがてその水圧に消されてしまうのだと思った。  閉院時間になっても、まるで帰る気にはならなかった。どうやらひとりで暮らしているらしいアパートの一室に帰ったところで、気がめいった挙げ句なにをしでかすかわからない不安感がぼくの心には停滞していた。   仕方なく病院をあとにしてから、ぼくはふらふらと町を練り歩いた。夜が更けるのは早かった。水の中を重いあぶくとなって沈んでいく内に見たものは、優雅に泳いでいく他者の鱗が、暗がりの中でもきらきらと活気づいている光景だった。ぼくという虚空なあぶくを避けて人々が流れていく。恋人とも家族とも職とも紡ぎを断たれたぼくは、その流れからさえ切り離されてひとり真っ暗な世界に沈んでいた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!