第1章

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 そんなの記憶喪失だったのだから覚えているわけがない。 「本当に何一つ思い出さなかったのですか? 婚約者なのに? 彼女は、ここ二日。あなたとの過去の話をしましたか?」  確かにしていない。でもそれは、立花さんなりの気遣いなのかもしれないと思っていた。 「婚約者なら、恋人に自分の事を思い出してもらおうとするものじゃないんですか」  高木の言葉が強くなる。 「そんな、僕の婚約者の振りをするなんて何の意味もないじゃないですか」  僕は高木の言葉を否定する。しかし、高木はこれにも首を横に振った。 「あるじゃないですか」 「何が」 「あなたが木目沢財閥の会長の孫だという事実ですよ」  僕は何か反論をしようとして、言葉が出てこなかった。 「あなたの立場を知ってすり寄ってきたのかもしれません。充分に気を付けてください」 「うるさい。黙ってくれ」  僕は高木の言葉を遮るように言うと手で追い払うようにする。高木は肩をすくめて椅子から立ち上がって病室を出て行った。結局その日は、この病院に来てから一番寝つきの悪い日になってしまった。  * * * 翌朝、僕は病院の出入り口に立っていた。医者は記憶障害の経過観察の為に週一の通院を言い渡しただけであっさりと退院となった。特に誰の見送りもなく僕は解放された。 「それは、そうか。長期入院していたわけでもないしね」 「退院していきなり独り言ですか。実は頭悪くなってるんじゃないですか?」  突然、声をかけられて振り返ると四季が立っていた。四季のほうは相変わらず病院着だ。 「誰も見送りに来なくて寂しがっているかと思いまして、お見送りにきてあげました」  図星だった。 「素直にありがとうと言っておくよ」 「そうですよ。こんな可愛い女子中学生に見送られるなんて男冥利につきるでしょ」 「自分で可愛いというな」  あははと四季が笑うので僕もつられて笑った。 「四季はまだ出れないのか?」  僕が聞くと「心配してくれるんですか?」とにやにやと笑った。 「まぁ。まだしばらく私はこの病院にいると思いますよ。こう見えて薄幸の美少女なので」 「美少女って自分で言うな」 「寂しくなったら会いに来てもいいんですよ」 「寂しくなったらね」 「期待しないで待ってます」  僕は病院の入り口で手を振る四季に見送られながらタクシーに乗り込んだ。自分の免許所に載っている住所を告げる。
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