13人が本棚に入れています
本棚に追加
「あなた…」
さっきまで名前も知らずに話していたその男が、夫が応接間の入口に立っていた。すぐにこちらに歩いてきて、彼は私の背中をさする。
「ごめんな、僕の不注意で君に辛い思いをさせた。記憶が変わってしまうほどのショックだったんだろう」
もうよぼよぼになった手で、私は夫の頬を触る。
「あなたなのね」
もう随分と昔に、こぼれ落ちていたようだった。それしかないほどに、大事にしてきたはずの記憶だったのに。
「ごめんなさい。ずっと、忘れてしまっていたのね。息子たちも何も言わなかったけれど」
「あいつらは気付いていたよ。けれど、事故で脳をやっているかもしれなかったからね。自然に思い出すまではそっとしておいてくれたんだよ。責めないでやってくれ」
そう言って、夫は頭を優しく撫でてくれた。何度も何度も。
「探し物が見付かったから、私は逝くとするよ」
暫く頭を撫でてくれていた夫は、そう言うと立ち上がった。
「そういえば、探し物って」
「…詩津子さんの記憶だよ。ほら、やっぱり、覚えていてほしいじゃないか。偽りの僕じゃなく、本物の僕を」
やはり穏やかな笑顔を口元に携えて言った。
もう時間がない、その言葉が気になっていた。
「逝かなくちゃいけないのね、もう」
私は、彼が成仏するための時間なのだと理解した。
「なぁに、すぐに会えるさ」
そう言って、最後にもう一度、頭をポンと撫でると、夫は目の前から姿を消したのだった。
最初のコメントを投稿しよう!