Forget-me-not

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「あなた…」 さっきまで名前も知らずに話していたその男が、夫が応接間の入口に立っていた。すぐにこちらに歩いてきて、彼は私の背中をさする。 「ごめんな、僕の不注意で君に辛い思いをさせた。記憶が変わってしまうほどのショックだったんだろう」 もうよぼよぼになった手で、私は夫の頬を触る。 「あなたなのね」 もう随分と昔に、こぼれ落ちていたようだった。それしかないほどに、大事にしてきたはずの記憶だったのに。 「ごめんなさい。ずっと、忘れてしまっていたのね。息子たちも何も言わなかったけれど」 「あいつらは気付いていたよ。けれど、事故で脳をやっているかもしれなかったからね。自然に思い出すまではそっとしておいてくれたんだよ。責めないでやってくれ」 そう言って、夫は頭を優しく撫でてくれた。何度も何度も。 「探し物が見付かったから、私は逝くとするよ」 暫く頭を撫でてくれていた夫は、そう言うと立ち上がった。 「そういえば、探し物って」 「…詩津子さんの記憶だよ。ほら、やっぱり、覚えていてほしいじゃないか。偽りの僕じゃなく、本物の僕を」 やはり穏やかな笑顔を口元に携えて言った。 もう時間がない、その言葉が気になっていた。 「逝かなくちゃいけないのね、もう」 私は、彼が成仏するための時間なのだと理解した。 「なぁに、すぐに会えるさ」 そう言って、最後にもう一度、頭をポンと撫でると、夫は目の前から姿を消したのだった。
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