Forget-me-not

2/13
前へ
/21ページ
次へ
今年でもう70歳を迎える。 ずいぶん老いぼれたものだな、と身体の自由が利かなくなってきたことに苦笑をもらす。 田舎での生活は私にはもう手馴れたものだと思っていたが、ここ最近少し、ひとり暮らしはもう限界かも知れないと感じてきていた。息子夫婦がこちらに一緒に住んだらどうかと、もう何年も前から言ってきている。けれど、私には此処を離れられない理由があった。 「郵便でーす」 玄関先から、郵便配達の人の声が聞こえた。 重い腰を上げて、郵便を受け取りに行く。 「郵便が届くなんて珍しいわね」 真っ白な髪を揺らしながら玄関の扉を開けると、若い配達員は慣れ親しんだ様子で口を開いた。 「こんにちは。今日もお元気そうですね、詩津子さん」 「今日は庭で採れた野いちごでジャムを作っていたのよ。あなたも少し持っていくかしら?」 街から少し外れた山の中腹、私が住む家はそんな場所にある。一週間に一度、車で山を下りて買出しをするほか、庭のこじんまりとした畑で野菜や果物を育てている。 「いいんですか?以前にもお野菜を分けていただきましたけど」 青年は申し訳なさそうに頭を掻いていた。 「いいのよ。ここには私一人しかいなくて、誰かに喜んでもらえることなんてなかなかないのだから。無理にとは言わないけれど、困らないようならもらってくれると嬉しいわ」 「それなら、喜んでいただきますね」 青年は顔をほころばせて、ジャムを受け取ってくれた。 「啓治さんがご心配されていましたよ。詩津子さん一人でこんな山奥に住んでいたら、なかなか様子も見に来れないと」 啓治というのは息子の名前だ。 「この土地からは離れないと決めているのよ。嫁いだ時に」 青年は次の言葉が思い浮かばないようだった。 律儀に頭を下げて、彼は配達用のバイクに乗って家をあとにした。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加