謎めいた無人船のエピソード

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 静寂(しじま)──船のなかはいっそうしずまりかえっていた。  船首から船尾にいたるまで各船室すべて、いつもどおりといった感じで整理整頓された状態だった。いずれの場所も、埃ひとつ塵ひとつないような印象を受けるほど隅々まで清掃され、ちゃんと整備されている。安全で清潔感にみちた、だが生活感にもみちあふれた、ごくふつうの正常な、いかにも長期旅船のなかといった雰囲気だった。  乗組員たちの船室は、各部屋それぞれ多少雑然としてはいても、所持品はだいたいがきちんと箱にしまわれ、わりと整理されていた。枕元に恋人の写真が飾られていたり、おのおのの大切らしき物品が置かれていたり、と。それぞれのベッド上は、まさに日常的に人が寝ていた跡の形に、くっきり凹んで型になってもいる。  その水夫たちの部屋の前には、洗濯物がいくつも綱に掛けられ、ついさっき洗ったあと絞って干したばかりなのだろうか、一様にぽとぽと雫を(したた)らせ、甲板を一列にアメーバ模様に濡らしていた。  しかし誰もいない。  船内中央にあるメインハッチの蓋が、半分ほど開いていたままになっている。だが暗く深く、覗く底のほうには、ならべて荷物が収納されているだけだった。船倉は浸水しているようなこともなく、おもな積み荷らしいアルコールの入った樽も、べつだん無事なようすできちんとつらなりならんで置かれている。  食料室に、充分な量の食材のストックはある。また、水槽内の飲料水もまだまだたっぷりある。  炊事場にはつくって間もない、温かく、まだ湯気さえ立っていそうな食物(たべもの)まで、鍋のなかにごっそり残っていた。  そこに、刃に短い髭の塊が付着した、料理人の物らしいつかいかけ(、、、、、)の剃刀がひとつ、台の上にぽつんと放置されている。  しかし誰もいない。  船長室の食卓にも四人分ほどの朝食が残されていた。  テーブルの上にコップに入った茹で卵が切って立てられており、子ども用らしいこぶり(、、、)のスプーンが無造作に、半分くらいに減ったオートミールの皿へつっこんであった。きっと食事のあと子どもに飲ませようとでもしていたのだろう、そのそばには咳止めの小さな薬ビンも用意されていた。  通常、いくらおだやかな波であっても、数時間もすれば船の細かな振動もあって、かってに滑って倒れでもしてしまいそうなもの──なのだが、テーブルの上に載った物はすべて、コップも皿も薬ビンも変わらず、じっと直立した状態をたもったままだった。  しかし誰もいない。  船長の寝室に、一台のミシンがカヴァーをめくられ、ほったらかしになっていた。そのミシンの上には円形の指抜きが、転がり落ちもせず、胴部分を下にしてちょこんと載っていた。  まわりの床には、いくつか女の子のものらしきオモチャが散らばっており、子どもの前掛けの袖をちょうど縫いつけている途中といったタイミングで、ぴたりとミシンは針の動きを止めていた。  しかし誰もいない。  船長室にもとくべつ異変はないようだった。現金をしまってある箱も破壊された形跡などなく、鍵はしっかり掛けられてもいるし、そのほかの貴重品類も、宗教と音楽関係の書籍が隙間なくならべられた壁の本棚も、整然と所定の位置に収まっていた。  しかし誰もいない。  運転士の専用部屋も、ゼンマイの切れた懐中時計が卓上にほうってあるだけで、べつだんおかしなところはない。やはりわりときちんと整頓されているようすで、平凡な日用生活に必要な雑貨品が散在しているのみ。  しかし誰もいない。  室内に運転士の航海日誌があったものの、それより十日前の11月24日まではごくありふれた内容の、ごくありふれた状況報告でしかなかった。  しかし──。そのような事務的な記述がつづいたあと、なぜか(、、、)それ以降のページは白紙になっていた。ただ、海図室の柱時計が正確に、無機質に刻々と時を刻みづつけているだけだった。  しずかに。そして誰もいない──誰もいなかった…………。
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