ノンフィクションという物語

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「いやいや。それは決めつけだろ。牧逸馬がマリー(、、、)・セレスト号って訳したのはわざとにきまってる。だって作中で“Mary Celeste”ってさ、これ見よがしに英語表記の船名をだしてもいたし、やっぱ日本人の読者がおぼえやすいようにと、より馴染みのある読み方にして工夫したっていうだけだとおもうけどな」  そのあたりも、すでに妻といっしょに検討済みだったので、すぐさま反証の弁が口をついて出た。しかし依然クロコは不動の姿勢を崩さず、 「であるからこそ、むしろやはり(、、、)さらにおかしい(、、、、)。牧逸馬という、まれにみる海外情報通、アメリカに居住し、イギリスに旅行し、何年もひとり英語圏で過ごしネイティヴなイングリッシュまで身につけていたという人物が、“Mary(メアリー)”という初歩的な単語の、ごくごく簡単な読みをどういう理由でか、あるいはどういう意図であれ、マリー(、、、)とまちがって文書に記し、半永久的に後世に残してしまうような凡ミスを犯していることは」  聞いて、うっと私は言葉につまった。牧逸馬が若い頃からたったひとりで、通訳など当然いないまま、幾年にもわたってアメリカ中を横断しながら暮らしていたのも事実だし、いっときは一年以上ロンドンに滞在し街いちばんの大型古書店に足繁く通い渉猟していたほどなのだから、喋りのほうがいかほどだったかはともかく、リスニングもリーディングもある程度英語(イングリッシュ)は達者だったのはまちがいないはずだ。 「実際、ヨーロッパ中のいろんなめずらしい事件や奇妙な事件の数々を詳細に記録した膨大な量のさまざまな資料を買い集め、日本に帰国したあと牧逸馬がそれらをもとにみずからの手で再構成し作品化したのがシリーズ世界怪奇実話であり、そのなかのひとつのエピソードであるのがまさしく船員全員消失という謎にほかならない」  あらためてクロコが指摘したように、英語の読み書きができるというだけではない、牧逸馬が当時の日本人にしてはめずらしく海外生活の経験ゆたかで、国外の情報収集にも広く長けていたこともよく知られている。だからこそノンフィクションのシリーズ連載をはじめるにあたって、できるだけたくさんの種類の関係資料を大量に、多角的に通読し、慎重に精査したうえでいざ執筆にとりかかっているのもまたまちがいない。もちろん再構成する過程で、事実の正確性よりも読物としての娯楽(エンタメ)性を優先したために、作者の想像による多少の脚色やストーリー上の意図的な省略などはあったろう。  とはいうものの言われてみれば、それほどまでに語学能力の高い牧逸馬が、はたして、そんな凡ミスを犯すかといえば、考えれば考えるほど、なるほど、たしかにおかしい。 「だから、なおさらおかしい(、、、、)。そして、であるからして、そこに問題が発生する余地も、また同時に、問題を解くキーもある」  クロコがまるで得意げに片手を挙げ、人差し指を一本まっすぐ立てたような動作をした。大きい真っ黒な布みたいなものを頭から被っているので、実際そうかどうかはまったく定かではないが。向かって右側あたりが少々もこっとしたのが窺えるだけで、もともと不明瞭なバックにシルエットがかろうじて目に映るというくらいで。 「マリー(、、、)・セレスト号という誤った名前に、はっきりとそれは示唆されている。牧逸馬が作品のもとにした材料にその原因、その存在(、、、、)があると」 「原因? っていうのはつまり、まちがいのおおもとが存在するっていうこと?」 「そのとおり、その証拠がある(、、、、、、、)」  証拠、論拠、根拠──近頃よく聞くエヴィデンスってやつか。おそらく牧逸馬が参考文献として使用した資料には、題材となった事件事故を詳細に追ったルポやドキュメンタリー等の書籍にかぎらず、関連情報が載った当時(リアルタイム)の新聞記事や雑誌の特集ページなどもあったのはたしか。ということは、 「資料のなかにそのものずばり、マリー(、、、)・セレスト号っていう船名になってたものがあったっていうことか。だけどそれこそ、いまさらその原因の証拠っていうやつの証拠なんか──」 「ある(、、)確実に存在する(、、、、、、、)」 「いやいや。確実に存在するったって、そんなのな──」 「確証がある、確実に存在するというのはイコール、いま、ここで、確認できる(、、、、、)ということ」  ないだろ、と私にツッコミをなかなかクロコは入れさせてくれない。間髪入れず連発して断言を重ね、すかさず上から論説をかぶせてくる。 「そう、みなさんご存じ定番の情報ソース、あなたがたも毎回あたりまえのように利用しているWikipediaに」  マウントをとるように言い放った。 「名探偵シャーロック・ホームズで有名な小説家のコナン・ドイルが、単発ものの自作のなかで“Marie Celeste”──マリー(、、、)・セレスト号と書いていたこと、そのドイルの短篇小説が同時代に各メディアにも、ひいては後世のサブカルチャーにも多大な影響をあたえたこと、そういった情報が確定的事実として記述されている」  なんだって? 再度、急いでPCのディスプレイで確認すると、Wikipediaにはたしかにこうある。 遺棄船は必ずしも不明ではなかったが、(中略)アーサー・コナン・ドイルによる扇情的な表現は、マリー・セレスト神話を創造した。  とも、 1884年、ドイルは、(中略)『J・ハバクック・ジェフソンの証言』という題名の物語を『コーンヒル・マガジン』1月号に匿名で投稿掲載した。  とも、はっきりと記載されている。それからコナン・ドイルが書いたその作品は、 元の事件を大幅に引用したもののかなりの量の創作を含み、船を「マリー・セレスト(Marie Celeste)」と呼んだ。  とも。  “Mary Celeste”ではない、つづり(スペリング)が“Marie Celeste”になっている──。“Mary”ではなく“Marie”なら、ほんとうだ、日本語へと変換した発音とカタカナ表記は「メアリー」ではなく「マリー」と確実になる。
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