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「船長ってまさか、ブリグス船長か……ああ。いや、そういやブリグスじゃあなくてブリッグズだったか、現実は。いや、この場合やっぱブリッグズじゃあなくブリグスでいいのか、ややこしいんだけど」
名前の表記や発音は本題ではないからさしあたりいいとして、取り急ぎ言及すべきは、
「ブリグス船長が犯人? いやいや、それはないだろ。だって船長が立派な人物だったってのは、当時から知られてたことだし」
キャプテンとしてのキャリアも長くとても経験豊富、大勢の部下から信頼も尊敬もされているし、人望も厚く責任感も強い、すごく信心深くて人一倍モラル意識をもった──などなど、とにかくしっかりした人格者だったというのは妻とのやりとりのなかでも話題にのぼったが、その点は当時の船長の人柄をよく知る関係者の証言からもまちがいないようだ。であるからこそ妻も議論の最中、『……ってことは、気まぐれにむちゃな命令してみんなを海へ飛びこませたとか、たとえば、発作的に頭がおかしくなっちゃって寝てるあいだに全員刺し殺しちゃったとか、そんなのもぜったいありえないわよね』と断言かつ断定しきっていたのだ。
「だからって船長がじつは、表向き善人の仮面をかぶってたサイコパスっていうことも、正体を隠した快楽殺人鬼だったっていうようなこともないだろう、いくらなんでも」
という私の連続して投げかけた反問に、
「たしかに、船長室の描写に『宗教と音楽関係の書籍が隙間なくならべられた壁の本棚も、整然と所定の位置に収まっていた』とあるとおり、ある種のたいへん精神性の高い几帳面な性格の持ち主だったのでしょう」
クロコはあっさり同意する。
「そうだよ。しかも船長は大の愛妻家で、子どもだってすごい溺愛してて、たびたび仕事関係の船旅にも家族をいつもいっしょに連れていくほどで、だからマリー・セレスト号にも妻と娘ふたりを同乗させてたんだし」
納得いかない私はいきりたち、勢いこんで言っていた。家族想いの船長に、時代はちがえど、おなじように大切な存在をもつ者として、おなじ夫という立場、おなじ父親ともいうべき立場の人間として、知らず知らずのうちにおもわず強く感情移入していたのかもしれない。
「だったらなんで、そんな人間が乗組員全員を殺すなんて、そんなだいそれたことを実行できるっていうんだ? 動機は?」
「だからこそ船長が犯人にふさわしい。だからこそ船長が犯人としか考えられない」
そんな私の疑問、というよりほとんど怒りの声に、半ばかぶりぎみに、ほぼほぼかぶせるように即クロコの声が聴こえた。
「そのような家族想いの人格者だったからこそ、家族のために犯行をなした」
独断的で、妙に自信満々な声音だった。と、私がその予想外の回答の意味を了解する間もなく、間髪入れずクロコはもっと意外なことを口にした。
「ただし船長は証拠湮滅をおこなった犯人でしかありませんが」
「えっ」
「大量殺人の犯人は船長の妻である可能性が高い」
「なんだって?」
「大量殺人の方法が毒物を混入したアルコールの乾杯で、でしかありえない以上、その条件から逃れてしまう例外が唯一存在するのだから」
「ん? どういうこと? ワケわからんぞ」
「それは子どもにほかならない」
「あっ」
例外的存在みたいな、こむずかしい言い方でわざとわざわざ表現するものだから、はじめ何のことだか何を言っているのかわからなかったが、クロコが論説しているのはようするに端的に言って、当時七歳だった女の子がさすがに大人といっしょにお酒は飲まないでしょう──ということだ。
「ということは……あれか……」
「そう、つまり毒入りアルコールでの乾杯で子どもは死んでいない、ということを意味する」
「えっと……じゃあ、そうならそれは……だったらそれが……ん……どうなる?」
「その場で子どもが亡くなっていないということならば、その前か後に亡くなったということになる」
しどろもどろ、言葉も思考も混乱した私のことなどおかまいなし、次から次へとクロコは独自の弁証を展開する。
「厳密には、おなじその場で、しかしアルコールでの乾杯とは異なる方法で、たとえば別種の飲み物や食べ物などにより単独で毒物を摂取させられた可能性はある。としても前後の諸条件に適合しうるのは、船員全員消失という結果的事実から推測するに、大量殺人のおこなわれた前であるにちがいない」
「待て待て、なんでそうなる?」
部分的に違和感をおぼえ、私は頭のなかがこんがらがりながらも、
「たしか……たしかそう、発見されたとき『船長室の食卓に』『朝食が残されていた』という描写があったはずだ」
考え考え、必死に反証の弁をしぼりだした。
「そうだ。たしかこうだ。『テーブルの上にコップに入った茹で卵が切って立てられており、子ども用らしいこぶりのスプーンが無造作に、半分に減ったオートミールの皿へつっこんであった』って。たしかこうも説明してたぞ。『きっと食事のあと子どもに飲ませようとでもしていたのだろう、そのそばには咳止めの小さな薬ビンも用意されていた』っていうふうに。だったらむしろ船長の子どもは、その場所で、そのお粥のなかに毒を混ぜられて死んだんじゃあないのか。しかも『通常、いくらおだやかな波であっても、数時間もすれば船の細かな振動もあって、かってに滑って倒れでもしてしまいそうなもの──なのだが』っていう註釈がわざわざ入れられ、ことさら強調したうえで『テーブルの上に載った物はすべて、コップも皿も薬ビンも変わらず、じっと直立した状態をたもったままだった』っていうんだから、発見されるほんとうにその直前、ほんの数分前まで子どもは生きていたはずだろ」
ようは、子どもの殺害は大量殺人のおこなわれた後でしかありえないのではないか、と言いたいのだ。が、クロコは私の指摘に対して、
「であるなら、なぜその『オートミールの皿』から毒物が検出されたといった事実がなかったのか。くわえて、もし子どもが無人船発見のまさにその直前まで無事に生存していたとするなら、いかようにして一瞬で姿を消したのか。はたまた、いかなる理由によって子どもはその時点まで船内で生かされていたのか。ないしは、殺されることなどなく失踪したということなのか──等々、その仮定によると、どうしてもさまざまな無理、矛盾がつぎつぎと噴出してしまう。同様に『船長室の食卓に』『朝食が残されていた』のを論拠とするならば、ほかの船員以外の船長家族が──少なくとも船長と妻が──無人船発見直前のそのときまで確実に生存していたという前提を共有できるのだとしても、しかしだからといって家族全員が生存していたとはかぎらない。論理的には、もうひとつの可能性も同等にありうる。というよりそちら以外、さまざまな疑問点・問題点を解消し、無理も矛盾もなく所与の条件をクリアする整合性の高い、不可思議な状況をうまく説明する合理的な解はない。つまるところ、子どもが不慮の事故により亡くなった、すでに亡くなっていた、しかも十中八九まちがいなく船員たちの不注意が原因でという可能性しか」
形勢逆転。怒濤のロジカル・ラッシュ。たたみかけていたつもりが、気がつけば私のほうが理屈で叩きのめされていた。
「だからこそ殺意が生まれた。だからこそ船員全員を殺してしまおうとまでおもいつめ、実際に実行し成し遂げもした、深い哀しみと激しい怨みの動機から」
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