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自分の名前も、自分の部屋も、お気に入りの服も、好きな食べ物も、楽しんでいたテレビ番組も、大切にしていたスマートフォンの中身も。
みんな、みんな、忘れていた。
辛くて、胸が苦しくならなかったかと言えば、嘘になる。
でも、不安な胸中を支えてくれたのは、家族や友達や先生や――それに、陽介君だった。
記憶を失う以前から、幼なじみとしてよく会話をしていたという、わたし達。
彼は、わたしの失われた記憶を、知っている範囲で補ってくれた。特に学校での振る舞いや、わたしがどういう対応をしていたか、とか。
もちろん、彼以外にも、たくさん支えてくれた人はいたけれど……彼の視線や教え方が、不思議と心地よかったのは事実だった。友人にからかわれてしまうぐらいには。
振りかえると、記憶を失ってからの三ヶ月はあっという間に過ぎて、それなりに幸せな生活を送れるようになっていた。
余裕ができた、ある時に、ふっと気づいたことがあった。
それが、今、陽介君に問いかけていること。
「だから……教えてほしいの。本当の、ことを」
「本当の、こと?」
――この胸の中、柔らかい身体の奥にある、硬い違和感。
「わたしは……ううん、違う」
風が、長くなった髪をなでる。眼の前の彼と、始めて会った時より、ずいぶんと長くなってしまった髪。
三ヶ月前のわたしにはなかったであろう、女らしい身体と振る舞いになってしまった姿で、彼に問いかける。
「僕は……本当は誰なの?」
「……っ!」
その一言は、彼の苛立った顔を一変させた。
浮かんだのは、苦いコーヒーを飲んでしまったのを我慢するような、ひきつった表情。
そんな表情は、見ていて辛いのだけれど。もし、その表情を隠して、生きているのだと想ってしまうと。
――辛いと想うのは、彼のことを、知りたいと願っているからなんだろうか。
「……誰って、陽鏡美月、それ以外の誰だって言うんだ」
「僕は、不思議だったんだ。君が、僕以上に、僕のことを知っているのが」
「幼なじみ、だからな。色々と、話は聞いていたし」
「部屋の小物や、教室のロッカーになにが置いてあるかまで、知らないんじゃない?」
「お前が教えてくれたんだよ。昔のお前は、俺に干渉ばっかりしてきたからな」
「そう、だね。三ヶ月前のわたしは、今と全然違ったみたい」
言いながら、心の中の違和感が大きくなる。
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