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そう。あの時の俺は必死だった。
俺は少女の細い脚を掴んだ。彼女もバランスを崩して、床に転がる。俺は馬乗りになって彼女の右頬を殴る。勿論、彼女も無抵抗ではいなかった。膝や拳が何度も俺の身体を襲った。
「二人はそのまま床をゴロゴロと転がっていって、結果、そのまま、階段から転げ落ちた」
――それが俺の覚えている記憶の全てだった。次に目覚めた時、目の前には白い天井が広がっていて俺は記憶を失っていた。
「どうです? 違いますか?」
おっさんは冷たい目線で俺のほうを見る。そこには先ほどまでの柔和さは最早なく、完全に犯罪者を取り調べる時のソレになっていた。
恐らく彼は最初から大体の事情は分かっていたのだと思う。現場に倒れている俺と彼女二人のうちどちらかが、事件の犯人だということに。
それで先に目を醒ました俺にカマをかけるためにここに来たのだろう。
まぁ、向こうにしても俺が記憶喪失だったのは計算外だっただろうが。
「……いえ、何も違いません。そのとおりですよ」
一瞬、このまま記憶喪失を装い続けるかとも考えたが、すぐに止めた。
無理だ。目の前の刑事は、もう俺に記憶が戻ったことを見抜いている。そんなことをしても意味はない。
「フフフ」
思わず口元が歪んだ。
このまま記憶が戻らなければ、あるいは全うな人間としてやり直せたかもしれないのに……
記憶は消せても現実は消えないらしい。
俺は黙って両手を刑事の前に差し出した。
完
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