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『記憶喪失。』
それが、全てにおいてなら、どれ程楽だろう。
嫌なこと、思い出したくないことだけのことだったら尚更。
僕は、記憶を失くした。
とはいえ、全てではない。
自分が誰なのか、何の仕事をしているのか、過去に何があったのか、親や友人がどんな人なのかもわかっている。
じゃあ、何を失くしたかって?
僕が失くしたのは『心』の記憶だ。
それは僕自身もわからないくらいに、自分じゃないような自分の心。
なのに、とても綺麗で大切だったもの。
それでもこうして生きてはいられている。
まわりの人間には気付かれてはいない。
いつも通りと思われているだろう。
だが違う。
僕の中では確実に、それを失った事への痛みが広がっている。
どうすれば、取り戻せるのか。
ただ、ひたすらに探し続けている。
もういいだろうと、新しいことに手を伸ばしながらも諦めずに。
一体、何処にいってしまったんだろうか。
そんな僕の前に、時々現れる人がいる。
それは夢の中で、はっきりとは見えない。
まるで、本当と嘘が入り混じった世界。
その中で見える一瞬の夢。
僕はそれが本当の夢だと何故か信じていた。
音のない遠い場所で、一人の少女がただ、そこにいる。
たった独りで。
何かを歌ったり、絵や文字を描いたり。
笑いながら。
でもいつも独りで、少女は時々、泣いていた。
悲しそうに、虚しそうに、寂しそうに。
僕は、それが辛かった。
この声が届いたら、笑ってくれるだろうか。
この音が、届いたなら…。
目が覚めれば夢は遠くなり、現実に埋もれてゆく。
僕はいつも通りの時間を生きる。
望まれた通りに音を奏でる。
その繰り返し。
僕の心は日増しに荒んでいた。
そして、多くを失った。
たくさん持っていれば、失わないと思っていたのに。
気がつけば逃げるように眠ることが多くなった。
いつか見たあの夢で、ほんの少し、聴こえた少女の声。
『大丈夫。』
何が、なのだろう。
誰が、なのだろうか。
それは、僕の願いなのか。
その言葉の続きが知りたい。
けれど夢は見れなくなっていた。
いや、気づけなかったのかもしれない。
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