亡き父の衣類を燃やしてみた  2024年10月8日

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亡き父の衣類を燃やしてみた  2024年10月8日

父の七回忌をおえ、これで一区切りつけたいとおもっていた。 倉庫に父の遺留品である衣類がある。施設から持ち帰ったものだ。 下着、冬物、夏物、あたらしく買ってあげた毛糸の帽子もある。 ビニール袋にいれたまま、倉庫に無造作におかれていた。 何年たっても、それを見るのが嫌だった。 燃やそう。そう思いながらできなかった。 人間ふしぎなもので、燃えるまえ、燃えたあとは心はあまり痛まない。 が、燃えているところを想像すると、心が痛む。 亡くなった叔母もおなじだ。 荼毘に伏された叔母を見れば、亡くなった事実だけを理解する。 斎場で骨となった叔母を見ると、葬儀を終えたとおもい、どこか安堵する。 ただ、焼かれている最中を想像するのは気持ちがわるい。 肌が焼けただれるだろう。熱で口をあけたらこわい。 納棺の儀、わたしは叔母の棺桶に、買ったばかりのフルーツの籠をいれた。 叔母とともに焼かれることをとチラと想像しながら。 みずみずしいグレープフルーツや葡萄にバナナなどが焼かれるのも、 なんだか生けにえみたいでかなしくなる。フルーツがかわいそう。 で、話はもどり、父の衣類はまず段ボールにつめ、まず見た目を隠す。 そして、ほかの燃やせるゴミと一緒に焼いた。 わたしは、すぐその場から逃げ、目のとどかないところで草を刈った。 そうやって、とぼけて時間を見計らい、おそるおそる焼けた状況を確認する。 紙ごみは燃えてもしかたがないとあきらめがつく。 衣類を焼く、というのは焼かれるものではないのだから、 うしろめたい気持ちだけが、焼けたナイロンのようにドロドロと残る。 ところが、ふしぎと、一度焼いてしまうと度胸がつくようだ。 わたしの家には、いぜん、姉の部屋にある衣類とか、 居候で住んでいた親戚のA子の衣類がある。 わたしは残されても困るから持ち帰ってほしいといったのに。 やつらはわたしの家を倉庫だとおもっている。 A子など、わたしの父の葬儀で着ていた喪服を堂々と置いているのだ。 すると、ふつふつと、やつらの衣類も燃やしてやる・・・ ナイロンを焼くときにでる黒い煙のような怨念だ。 いぜん、姉のジャケットを古着屋にだしたら36円の値がついた。 その安さ。買い取ってもらうそのために、半日をつぶしたわたしの手間。 A子のワンピースなど、古着屋のスタッフが検品するさい、 これはネマキなので0円だといわれた。引き取れないとも言われた。 そうした恨みがかさなると、度胸というより、 燃やしたくなる衝動にかられるのだ。
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