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目の前の扉は今やすっかり慣れ親しんだモノで、掛かるプレートに印字された店名も最早よく知ったるもの。
ならば何故ひとり、こうして扉の前で立ち竦み続けているのかと言うと、緊張やら興奮やらに包まれた心臓がバクバクと騒ぎたて、平常心を奪われているからだ。
落ち着け、落ち着け。
何度念じても言うことなんて聞きゃしない。
原因はただ一つ。今日がカイさんへの気持ちを自覚してから、初めての"エスコート"である。
気持ちを伝えるその時まではバレる訳にはいかない、という使命感もさることながら、何よりも好意を抱いた相手に会えるという期待と気恥ずかしさがせめぎ合い続けて最早グチャグチャに混ざり合っている。
心臓が口から飛び出そうだ。いっそ、飛び出してしまった方が楽になれるのかもしれない。
そんな馬鹿みたいな事を考えてしまうくらいには、振り回されている。
だが、いつまでもここで一人相撲をとっている場合ではない。
腕時計で確認した時刻は予約の五分前。
(行く、か)
頼むぞ、"ユウ"。
意を決し、すぅ、と息を吸い込み、ひと呼吸。
(よし、)
閉じていた瞼を上げると同時にノブへ手をかけ、一気に扉を開け放つ。
「いらっしゃい、ユウちゃん」
黒の際立つ空間に、響いた声。
「今日はいつもよりゆっくりだったね?」
聞き覚えのある声に、軽い調子と親しげな口調。
顔を見ずとも、その主は。
「拓さん」
「"この間ぶり"、だね」
人差し指を唇に寄せ、悪戯っ子のようにニィと笑みを浮かべた拓さんに苦笑しながら頷く。
奥の部屋で待機しているだろうカイさんに聞こえても不自然のないように、それでいて俺には分かるようにと揶揄されたのは先日の拓さんの来店事件だ。
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