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混濁に咲いた花 3
IT関連事業で蓄財した真悠子の愚夫。それは今も同じで、30歳にして早くも代表の座を若手に譲りはしたが、頼りない後輩に呼び出されては都内を駆け回っている。
この間、家のことは家事代行サービスに任せきり。真悠子が身を崩してからは帰宅頻度があがったものの、しかし、世間一般の夫婦と比較してみれば疎遠であることに違いはない。
薄情なことよ──昭美もつい呆れずにはいられない。今のところ真悠子から最も信頼の置かれている身だが、かなり偏執的なところのある頑固な彼女に辟易することもしばしば。疎遠な現状から脱却し、もっともっと頼り甲斐のあるダンナサマになってくれることを期待してやまない。
まぁ、どだいムリな話だろうが。
「自然派志向……か」
洗濯機を回しながら昭美は呟く。
「それしかツールはなかった?」
良心の呵責とやらがあり、真悠子とのせめてものつながりのために家庭菜園を耕したつもりなのだろうか。IT関連企業の重役という自由の利かない身分がゆえに、小ぢんまりとやっていける家庭菜園で妥協したのだろうかと。なおかつ、たまさか休暇に恵まれた途端、今度は欣喜雀躍して大層な物見遊山を企画する。都合よく夫婦の絆を案じ、妻を忖度した気分になり、あまつさえフィトンチッドこそ有望株だと盲信する。
「犠牲の妻か。可哀想にね」
物理的なつながりに頼らなくては不安で不安で仕方のない夫婦なのかも知れない。心のつながりだけでは安定できない夫婦なのだと。
「なんだかリッチな話」
金持ちの夫婦なんてそんなものかと思いなおしてみる。実際、心さえもお金でどうにかしようとする富豪がいることも確かだし。
それに、例えば株価だって心のもたらす変動には違いない。少なくとも心と物が癒着を持つことは特殊な例ではない。単に個々人の優先順位の問題に過ぎない。
「よくある夫婦の一例なのかしらん」
頼りないダンナサマが気の毒になり、そんなふうにも思ってみる。
とはいえ、嘆かわしく思うこともままあった。
『お金は払うからさ』
心か、頭に深刻な問題を抱える真悠子に目を白黒させていたものだから、ついつい金銭的な話を急いだのかも知れない。が、よくよく考えてみれば、お手伝いさんに対するメンタルケアこそあれ、唐突な金の交渉はいくらなんでも拙速に過ぎるのではないかと苦笑した。
だいたい、お手伝いさんの給料を決めているのは家事代行サービス会社なのであり、手伝ってもらう側に金額を左右する権利はない。そんなこと、少し冷静になって考えてみればわかること。なのに「お金は払う」などと、あたかも給金を弾ませるような表現で、あれではさらに目を白黒させたのも当然の結果だ。
どうかしている。
「富裕脳の解明に脳科学の出番はない。電器屋に頼めばすべてを解説してくれる」
真悠子の言う「強制」も、あながち間違いではなかったのかも知れない。
ヒドいダンナサマだな──無言で嘲る昭美の目の前、不憫な奥様のブラウスが螺旋のワルツを踊る。白い無地が濁水に巻かれて右左。まるで灰被り姫の社交ダンス。
他にもやることはあるだろうに、疲れた昭美は手ぶらで舞踏会に見入っている。
ちちゅちゅ。脇にある浴室、開け放たれている窓の向こう側から暢気で健気なスズメの声。昨日の台風のせいか、いつもの蝉時雨は姿をひそめ、およそ数十日ぶりの清閑な朝が耳にすんと匂っている。
いっそのことすべてを投げ捨て、みなとみらいのあたりを散策してみたくもなる。しかし、昭美にはせいぜい鼓膜の片隅に清閑さを楽しむぐらいが関の山。
「混濁なさるな姫様よ。白く舞うのだ」
日曜日の朝からこのザマだ。亡き夫のせいで、まさかこんなにも落ち着きのない休日を迎えようとは。
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