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混濁に咲いた花 4
夫は、もういない。いつのことだったかは記憶にないが、突如、いなくなってしまった。蒸発してしまった。まだ生きているのか、もう死んでいるのかも定かではない。しかし、死んだものだと思いこんでいる。思いこんでいるのだから、捜索届を出すこともしない。自分の足で探すこともしない。あくまでも、ふと思い出した時に思い出に耽るだけ。
せいせいしたわ──などと思っている。子宝には恵まれなかったが、夫に感けている暇もないほどに忙しい40余年の結婚生活だったのだから、彼の亡き今、やっと肩の力を抜いて第2の人生を歩んでいける──などと。
『でも、本当にそんな余生を送れるの?』
ぽつぽつと身の上話を聞かせると、そう言って、珍しく表情を曇らせた真悠子。
『あなたも、肩に力を入れて働いていないと滅入る性分なのでは?』
そんなものなのかな──昭美は胸に手を当てて考えてみたものだ。しかし、言われてみれば確かに、両の肩を力ませ、忙しなく頭と身体を働かせ、すっかり見る影もなくなってしまった伴侶から心の距離を置いていなくては、もしや気分が滅入ってしまうのかも知れない。どこに行ってしまったのかと、私を置いていかないでと叫んでみたところで、あるいは、すべてを投げ捨てて横浜を遊山してみたところで、どうせ自失する日が訪れるに決まっている。
だから、こうして働いている。塩焼も刺身も我慢し、休日の朝、真悠子に最も信頼されるお手伝いさんとして。
すべてが、亡き夫のせい。
しかし、悪い夫ではあったが、
『私は主人が嫌いだ。いつでも嫌いの理由を探してるの。夢中になって、嫌いなところを頭のメモに箇条書きしてるのよ』
そう真摯に真悠子が語る時、昭美は少しだけ、悪いだけの夫ではなかったのかも知れないと思わないでもない。
なるほど、夢中になって働かせる夫だということなのだ。
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