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混濁に咲いた花 6
「お昼は──」
三面鏡の真悠子へ尋ねる。陽の光を浴びずとも新雪のようにキラキラと輝く自慢の髪を、優しく丁寧にブラッシングしてあげながら、彼女のとろんとした瞳に問いかける。
「なにが食べたいですか?」
彼女の白い寝室にももうそんな時間がやってきている。もともと料理の不得手な昭美だが、真悠子のおかげか、ただ作るだけのことであればだいぶん得意にはなった。
「んん……?」
ブラッシングが心地よいらしく、間もなく眠ってしまいそう。もしや、庭が美しく蘇って上機嫌というのも要因だろうか。冥利に尽きる。
「お昼ご飯ですよ。食べたいものは?」
「ん」
ウトウトとしている時の真悠子が最も綺麗だと思う。現実から乖離しているかのような、つかみどころのない彼女を苦手としているからなのかも知れない。何度も何度も同じ話をするし、それが、無機質なロボットのように思えるからなのかも知れない。
『ぶっちゃけ真悠子さんは苦手です!』
月曜と土曜を担当する若いお手伝いの娘はそう明言した。ぶっちゃけ過ぎにもほどがあると思ったものだが、彼女はまだ短大生らしく、言葉の綾という処世術に出会っていないのだろう。本人には絶対に言わないようにと優しく釘を刺したものだが、それ以上を注意することはしなかった。
昭美も苦手だ。
でも、苦手だからというのは放棄の理由にならない。信頼されているのであればなおのこと、放り出すわけにはいかない。
それに昭美は、彼女のことが苦手であるのと同時に、好きでもある。
華奢な身体つき。
柔らかな長い髪。
ウトウトとする顔。
透き通った美声。
そして、夫を嫌うことに真剣なところ。
憧れる。惹かれる。自分とは正反対で、強く、美しく、しかし、幽明に漂っているかのように儚く、決して孤独にはできないと思ってしまう。ただでさえ孤独な女だが、だからこそ、せめて自分がそばにいられる時にはぴたりと寄り添っていたいと。
『真悠子ともうします。できればフェアな関係でいたいものです。まぁ、やれるだけやってみてください。どうぞよろしく』
初めて会った時には、なんて気取った女でプライドの高そうな女だろうかと後込みしたものだ。しかし、話せば話すほど、その美声に憑かれ、その感受性に憧れ、ついには惹かれていた。
いや、まなざしの中に夫がいる時には、静かな妻なのだ。愛想は皆無に等しいが、夫の提案には黙って従うような妻。少し淋しげに、憂いを帯びた瞳で従うような妻。
まさか不満だらけだったとは。
そして今、真悠子の儚ささえも知り、昭美の胸には、できるだけそばにいたいという新たな気持ちが芽吹いている。苦手は苦手なりにも、放っておけないこの感情……、
……放っておけない?
髪を梳りながら、ふと昭美は、気取っているのはどちらだろうと思った。プライドが高いのはどちらだろうと。憧れを利用し、儚さを利用し、単に自己を満足させたいだけなのではないかと。この、胸にぽっかりと空いた穴を、虚しさを、苦さを埋めたいだけなのではないかと。まるで、贖罪を言い聞かせるように。
「お昼はね」
「はい」
たまにしか帰らない夫と、蒸発して亡くなった夫──そんな夫を持つ2人の妻が、三面鏡の中、ひとつにおさまっている。
「お昼は、あなたの好きなものでいいわ」
「え?」
昭美の櫛が止まった。
初めて言われたことだった。
「あなたの、好きなもので、いい」
美声をウトウトとさせながらも、鏡の中の真悠子は、いつの間にか前者の妻の顔をしていた。そしてその目は、
「あなたの、好きなものが、いい」
昭美の目と、合っている。
不満をこぼす、乖離してつかみどころのない、いつもどおりの顔ではなかった。どことなく淋しげで、憂いを帯びた、いつもどおりの顔だった。
「銀杏でも、ジャズでも、なんでも」
そうして真悠子は、弱々しく、こう告げたのだ。
「私は……生きる力が欲しいの」
4年前、真悠子は前頭側頭型認知症 (ピック病) の疑いがあると診断された。しかし、症状はあまりにも特殊で、病名の断定にも至らず、いまだに不明点のほうが多い。だから適切な処置を施せず、適切な処方箋にも出会えず、症状は滲むように進行。今年に入ってからは、とうとう車椅子へと寄りかかるほどに衰えた。
混濁するほどに衰えた。
真悠子の頭の中に認識されている夫は、半分がたまにしか帰宅しない働き者であり、もう半分が亡き者となっている。
昭美がお手伝いさんである時には、彼女の夫は蒸発して亡くなっている。本人を目の前にしても乖離の瞳はそっぽを向いたまま、昭美をお手伝いさんのひとりと思いこみ、
『せいせいしたわ』
第2の人生を仄めかし、しまいには、
『でも、本当にそんな余生を送れるの?』
そうやって自問自答を繰り返す。
記憶は鮮明で、主観だけが混濁する。
従順な妻と偏執の妻とに混濁する。
憂いと儚さとに混濁する。
いつもどおりが混濁する。
取りとめもなく混濁する。
混濁する。
しかし、
「おかえり、なさい、ね」
「うん……ただいま」
「つかれた、でしょ。あきよし、さん」
亡き夫と思っている時にも、真悠子は夫の嫌いなところを箇条書きに挙げながら、頭の中を忙しく働かせながら、その実、生きる力へと換えようとしていたのか。
そうやって昭美を、日ごとに衰えゆく頭の片隅に、懸命にとどめようとしてくれていたのか。
この憐れな愚夫を、混濁の渦の中、しかと咲かせていてくれたのか。
そんなに、死期が近いのか。
「おかえり……真悠子」
寝息を立てることもせず、彼女は死んだように眠ってしまった。
代わりに、純白の部屋が静かな熱を帯び始める。
昭美は、その小さな頭を何度も何度も撫でながら、ついぞ知ろうともしなかった彼女の記憶野に誓う。生きる力と言うのならば、覚悟を決めてかたわらに咲いていようと。そして、真悠子をこの頭の中に咲いていてくれる花とするために、未来永劫、彼女と目を合わせ続けていようと。
【 終わり 】
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