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混濁に咲いた花 1
台風一過の空は泳げそうなほどに青い。疎らに浮かんでいる淡い雲を波間の泡沫とイメージすれば、茫洋の海という形容も相応しい。
「晴れましたねぇ」
ダイニングの窓辺で昭美は腕組みをし、葉の広い生垣に遮蔽されて狭くなっている青空をくまなく仰いでいる。
「いくぶん涼しさも感じます」
風雨が雨戸を叩いている時までは茹だるような蒸し暑さだったが、今は乾いた秋の気配さえも感じる。
事実、暦の上ではとうに秋。
「食欲の秋ですねぇ」
昭美にとっては、そんな秋。
還暦を過ぎてなお、花より団子と後輩に揶揄されるほどに食べることが好き。特に秋の味覚には目がない。秋刀魚。戻り鰹。鮭。松茸。栗。銀杏。茄子。里芋。南瓜。甘藷。林檎。乾し柿。梨。葡萄。無花果。あと新蕎麦も好き。
おかげさまでふくよか。若かりし頃は新陳代謝がよく、食べてもさほどには太らず、男女を問わずに羨ましがられたものだが、40代半ばを過ぎてからは急速に太りやすくなった。歳は取りたくないものだと思う。
が、そうは言っても、
「特に魚介が美味しい」
やっぱり花より団子。
「身の引きしまる季節ですからね。だから、元気に泳いでいてくれれば、私にとってはどの魚も旬ものですよ」
最近、あまり食べられていないせいか、目を瞑らなくても塩焼や刺身が脳裏に浮かぶ。もしや、仰いだ先の茫洋の海がイメージを飛躍させているのかも知れない。
「真悠子さんはなにがお好きですか?」
腕組みをほどき、その腕を左右の腰に当てると、昭美はやおらに右を向いた。ダイニングと続きになっている白いリビングを。
「甘いものがお好きなんでしたっけね?」
昭美と同じように、窓辺で庭をぼうと眺めている女がいる。白いワンピースを車椅子に寄りかからせ、凛として動かず、しかしそのまなざしを、青空ではなく、台風によって荒れ放題の庭面へと静かに落としている。
伏せた目が、なんだか不服そう。
「栗キントンなんてどうですか?」
荒廃しっ放しで原型をとどめていない庭が、どうやらお気に召さない様子。
「無花果のタルトもいいですねぇ」
かつて夫に従って家庭菜園に勤しんだ、小さいながらも記憶に根深いらしい庭。
「林檎のパイとか。あと、柿のパイなんてものがあってもよさそうですねぇ」
「主人は銀杏が好きだった」
昭美の語尾を遮るように、ぼそりと女が言った。小声にも張りのある透明な声で、大人のようでもあり、子供のようでもある美声。
それもそのはず、女──真悠子は、つい数年前まで声楽家をしていた。名門音大を出、プロとして全国を飛び回っていた。身を崩して引退を余儀なくされたが、その美声はいまだにブランクと縁がない。
「私は嫌いだった」
朝露のような声が澄んだ空気を跳ね返す。
しまった!──と昭美は後悔。いつもの、取りとめのない独白の流れへと、自分のほうから促してしまった。
「だけど彼は茶碗蒸しを注文するんだ」
その話は頻繁に耳にする。年に数度しかチャンスのないデートだというのに、夫は必ず和食屋へと連れていき、必ず茶碗蒸しをオーダーし、必ず妻に強制するのだと。
「あんな不味いもの」
果たして強制だったのだろうかと昭美は訝るが、真悠子のほうはずいぶんと根に持ってしまっている様子。姑が小言を言うようにしつこく不満をこぼす。
「不味いのに」
昭美には苦笑いを浮かべることしか術がない。
「ですよね。強制しちゃダメですよね」
取り繕い、うんと伸びをする。
さすがに、もう手慣れたもの。
「さぁて。洗濯しなきゃ」
この家のお手伝いさんだったと都合よく思い出す。わざと彼女に聞こえるような声量でひとりごとを演じると、足早にダイニングから逃亡。なにしろ、真悠子の小言は簡単には止められない。
事実、背後にはまだ、
「あんな不味いものを彼は──」
取りとめもなく美声が舞っている。
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