千年樹の果実

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「おう、いたいた。俺今から歯医者行って来っから。ん、で、また戻って帰るから。んー4時過ぎだな。鍵渡しとくから」 香坂は、キーホルダーを投げてよこすと、せっかちにバタバタと走って行ってしまった。赤いガラスに不という文字が刻まれている。大学の頃、香坂と椿は『不詳人』というデュオを組んで歌ってた。僕は拙い作詞をして。伊豆高原にバイトに行った夏、近くの工房で作ったキーホルダー。椿は詳、僕のビー玉には人という文字を刻んだ。あちこち削られて傷だらけになっている。それでも、他のに混じってずっと香坂の側にあるのを見るのは、なんとなく嬉しい。鍵をポケットにしまい、藤棚の向こうに見える雑草の伸びた空地に視線を移す。 『とまり木』の建物の輪郭が浮かび上がって来るような気がした。二階の広く大きなガラス窓から、玲人さんが手を振る幻覚、 「夏ちゃん」と呼ぶ幻聴。 草取りでもしようか。嫌味だと思われるだろうか。そんな事を考えながら、誰も居ない辺りを見渡してから、そっと空地に入り石碑の近くに座り込んだ。
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