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閑散とした昼間の街は、秋の気配が近づいてきているせいか、どこか寒々しかった。詩子はすでに冬のような冷え冷えとした気持ちに青ざめるようにして、足ばやに家路を急いだ。
梛の怒る姿がひどく哀しくなって、同時に怖さも覚えて、複雑な感情が詩子を取り巻いていた。たかが教育実習生で、たかが店の人だ。なのに詩子にとって、梛はどこか無視できない存在でいた。樫木が話した内容より、なぜか梛の存在の方に気をとられてしまう。
いつもの路地を入って住宅が並ぶ一郭にさしかかった。詩子の家は一般的な白壁の民家だ。玄関まで伸びるポーチには母が手入れするプランターが並ぶ。
詩子が玄関に続く門を開けた時、「詩子?」と背後から声がかかった。
女の人の声が自分を呼んだ。誰だろうと振り返ると、そこには買い物袋をさげた女性がいた。
「あ……」と言ったきり、詩子はうろたえた。
「詩子、おかえり。どうしたの、突っ立って」
そう女性は言った。詩子は手が小刻みに震えるのを隠しながら、無理矢理笑みをつくった。
「たっただいま!」
激しい動揺を見せないようにしながら、詩子はごまかすように笑った。
「あ、こ、コンビニ行ってくる!」
「詩子!? 早く帰るのよ!」
やかましいほどの動悸を覚えながら、角を曲がるまで詩子は後ろを振り返らず歩いた。曲がったところで立ち止まった。
最初、あの女の人が誰か分からなかった。その事実が詩子を大きく打ちのめしていた。震える拳を口に押し当てて、泣きそうになるのを必死でこらえた。「お母さん」という言葉が出なかった。じょじょに思い出したものの、記憶の喪失がそこまで侵食しているのかと思うと絶望的な気分だった。
「詩子、どうしたんだ?」
またかかった声に大きく驚いた詩子は、その人物を認めてなんとなくホッとした。
「お兄ちゃん……」
「なんだよ、こんなところで何してるんだ?」
大学からの帰り道らしく、カバンを肩にかけて離れた所から訝しそうに詩子を見ていた。
詩子は安堵したように息を吐くと、泣きそうな顔で兄の眞一郎を見た。その弱ったような表情に、眞一郎は大股で歩み寄ると、詩子の顔をのぞきこんだ。
「どうした、誰かになんかされたのか? どっか痛いのか?」
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