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もう終った恋の話をするのも面倒で、詩子はその話を打ち切ると、トイレを口実に教室を出た。とりあえず今は自分の記憶喪失のことで精一杯だった。昼のことを断ろうと思って隣の教室をのぞくと煉の姿はない。
仕方なく戻りかけたその背に、「根元」と再び梛の声が届いた。詩子は少し気まずさを覚えながら振り返った。
「悪いが……手伝ってくれないか」
どこか遠慮がちな梛の様子に、詩子は渋々頷くと社会科準備室に入った。
「……昨日は悪かった」
頼まれた資料のコピーをしていた詩子の背に、ぼそりと梛は謝った。振り返った詩子を、梛はどこか複雑な表情で見ていた。
「いえ……」少し戸惑い気味に頭を振ると、梛はなんとなくホッとしたようだった。謝るタイミングを探していたらしい梛に、なんとなく詩子は肩の力が抜けて、小さく笑ってしまった。
「あの……物の記憶を読みとるのは、槙原先生の役割なんですよね?」
詩子はコピーの束を梛の机に置きながら、昨晩考えていたことを口にしようと思っていた。
「それって、人も可能なんですか?」
「え?」と虚をつかれたように梛は資料の準備から顔をあげた。その時だった。
「槙原せんせーいますかー?」
その声は複数の女子生徒の声だ。どうやら手伝いに来たらしく、扉の向こうでキャーキャー騒ぐ声が聞こえてくる。
「あの、今日、お店に行きます」
小さく詩子はそう言うと、梛が引き止める間もなく準備室の引き戸を開けた。別のクラスの女子生徒たちが一瞬怪訝な視線を詩子に送る。詩子はそれを気にしないよう努めながら、梛に一礼して自分の教室へ向かった。
ちょうどホームルームが始まる五分前のチャイムが鳴ったところだった。
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