序章

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「一口にモンゴルと言っても、一枚岩ではありません。わたくしの命を狙って進軍してくる将軍バイジュと、ダヴィドが後見を取り付けた王侯バトゥの勢力とは、互いに別の考えを持っているようです。モンゴル同士の対立のうちにこそ、我が王国が生き残る道が必ず見つかります」  追いつめられて毒を仰ごうとしている者とはとても見えない。女王の濃い灰色の瞳には静かな輝きがある。 「我が子ダヴィドが安全を確保するまでは、何としてもこの王位と命を保たねばなりませんでした。しかし、その役目ももう終わりです」 「では、女王様は本当に、王都トビリシの土を二度と踏まぬおつもりなのですか?」  涙に震える侍女の言葉を聞いて、女王はわずかに眉根を寄せた。そのまま口元だけに微かに笑みを浮かべる。そうするとひどく皮肉な、意地の悪い表情になった。 「トビリシなどに帰って何とします? 何もかも燃やしてしまったものを」  不興を買ってしまったと縮こまる侍女をそのままに、ルスダンは再び石窓に向き直った。  女王は目を伏せた。彼女の瞼の裏には、母と過ごした部屋が、兄がいつも昼寝をしていた露台【テラス】が、かくれんぼをした庭が浮かんでいた。それらのすべては、モンゴルの手に渡さぬために、ルスダンが自ら命じて燃やしてしまったのだった。  追憶にふける女王の横顔には、見る者の胸を掻きむしるような悲しい美しさがある。 「帰りたいところなど、もはやこの世のどこにもありはしない。会いたい人たちは、既にこの世のどこにもいないのだもの」  ルスダンはそう呟いてから、侍女が可哀想なほどに恐縮していることに気がついた様子で、表情をやわらげた。 「そうね。そなた、これを……」  女王は右のこめかみに両手をやって、ビザンツ風の見事な髪飾りの片方を外した。宝石を配した円盤を幾つも連ねたその髪飾りは、幼い頃に母のタマラ女王から贈られて以来、ルスダンが肌身離さず身に着けていたものだ。 「もしいつか、そなたが生きてトビリシの土を踏むことがあったら、これを埋めてくれますか? できればイサニの王宮の庭に。礼拝堂の跡地と噴水の近く、かつてリラの木が何十本も植わっていたあたりに」  手ずから渡されたそれを胸に押し戴き、年若い侍女は幾度も首を縦に振った。ルスダンは応えるようにひとつ頷いた。  ユリウス暦にして、一二四五年のことであった。
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