私と橘君

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彼と初めて言葉を交わしたのは、確か小学5年生になって間も無い頃だったと思う。 季節は春だっていうのに、夏の匂いがして。 蒸し暑いような昼過ぎ、客足が緩やかになった時間にスーツを着た初老の男性とやってきた彼は、小学生の私が心配する程弱々しかった。 真っ白な肌に細い手足。 透き通ったサラサラの髪と、色素が薄い瞳。 白いシャツにニットのベスト。 黒いスラックス。 そんな服装に強烈な違和感を感じていた。 女の子が何故そんな格好をしているのだろう。 と、私が間違えるくらい目鼻立ちがはっきりしている、儚くてか弱い清楚な男の子だった。 二階建ての広々としたうちの喫茶店は、オーナーである祖父の趣味でログハウスにモダンを融合させた内装になっていて、一階の照明は少し薄暗く、使い古したアンティークの木の机に真紅を基調とした椅子で、ダンディを気取る祖父の趣味が色濃い。 二階は大きな窓から日差しが入り、檜の椅子と柔らかで座りやすいマットチェアーで子供連れや友人とのお喋りに興じる人向けである。 これは祖母の意向だった。 彼は一階の一番左手、観葉植物に隠れた奥の席へ座った。 机の真ん中をただじぃっと見つめていて、メニューも開かず、席へ座らない男性があれこれ横で言ってはいるが、心此処に在らず。 私はカウンター席の端で彼を観察していた。 なんだか息の仕方がおかしい事に気付く。 肩で辛そうに息をしている彼は、やっと口を開いた。 「暑いから何も要らない」と。 ここに来て何も要らないとは失礼な。 祖父はフランスで修業を積んで、一流ホテルで料理長も任された人だし、祖母が畑で丁寧に育てている野菜は一級品。 パティシエの叔父が作るケーキだって、園田さんが選んだ紅茶にコーヒー、父が作るパンだって美味しい! ここには美味しいものしか無いのに! 私が尊敬する食べ物全てが揃ったこの店で何も要らないとは! 母が作ってくれたエプロンの裾を握りしめて、怒り狂った事を良く覚えている。 悔しくて、憎らしくて、私は床を思いっきり踏付けながら彼に向かった。 「じゃあ何が食べれるわけ!?」
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