第1章

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 社会人になって間もないころ、おなじように席が空いて座った日のことを思い出す。時間も今日とおなじくらい、あの時は急行電車だった。品川駅からひとつめの停車駅の青物横丁で運よく席が空き、間を空けずに腰かけた。一瞬目を閉じていただけだと思っていたのに目をひらいたころには横浜駅を通り過ぎ、終点の三崎口に着く直前だった。その日は顧客の情報を管理システムに打ち込む単純作業をしていた日で、夜は部署の人たちと飲み会をしていた。当時上司だった小松さんの説教とアドバイスが入り混じった話のなかで「焼酎は飲めるようになったほうがいいぞ」と言われた。飲み放題の宴会コースで予約していたためにいくつもの焼酎を飲んだのがいけなかったんだろう。すっかり寝てしまっていた。 三崎口駅のシャッターが閉まるのを眺めていると、もう笑うしかなかった。仕方なく駅のロータリーのベンチに座った。酔いがさめはじめて寒気を覚えた。始発までの時間をどうやってつぶしたらいいのかわからない。近くに泊まれるホテルやコンビニも見当たらない。思考が止まってしまっているときに運よくタクシーが一台ロータリーに入ってきた。 「終電寝過ごしちゃったの?」  僕を見つけるなりタクシーの運転手は助手席の窓を開けて優しく微笑んだ。このときの僕にはタクシーの運転手が本当に仏様に見えた。寒さから解放されたことと家に帰れる安心感から、タクシーに乗った途端に涙が出てきた。 あの一件以来、飲み会や残業で遅くなりすぎた日は空席に座るのがこわい。今日はそれほど疲れてもいないから眠ってしまう心配もないし、きっと終点の駅には優しいタクシー運転手が待ってくれているんだろう。けれど、結婚しお小遣い制になった僕には家に帰るのに一万円もかけることはできない。おまけに今読んでいる本は僕との相性が悪いときている。表紙が気に入って買った文庫本だが、文体がなかなか好きになれない。横になりながら読めば三ページで眠気がやってくる。 「快特京急久里浜行き、ドアが閉まります」  フールルルルルール  電車が発車するときに鳴る音が聞こえる。速度を上げるときにモーターが出すノイズをかき消すためにつけられたメロディ。快特と急行電車の車両にはすべて取り付けられているのだろうか。そのわりには久しぶりに聞いた気がした。でも品川を出るときにも鳴っていたはずだから、僕が聞きそびれていただけなのかもしれない。
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