第1章

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人為的に造成された日本はその雰囲気から私たちの痛みを取り除いてくれる。 あの惨禍から長い時間が経ち、我々は次の時代を見据えようとしている。鉄道の再整備、オリンピックの開催、久しぶりの好景気に、日本人はそれなりの希望を持つようになってきた。それは、あの悲惨な時代に育まれた連帯感によって、さらに加速されているように思う。 この連帯感は国家全体のものとは限らず、むしろ、より小さな集団での連帯感であり、その中で我々はさらなる夢を見ている。その鍵は思春期に託されていると、私は考える。 一見矛盾することを言っているように思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜならば、語り手の意思によって、文章の装飾が行われるから、言い換えれば、キャラクターによって、物語が語られてゆくからだ。 ここで容易に想像がつくように、誰もが自由に「愛」について語って良い。今まで生きてきた人間の数だけ「愛」の物語があるに違いない。 先日のことだが、僕はある人から「君の言っていることは論理的ではないね」と指摘されていろいろ考えた。こんなことを云われると、なんだかよくわからないけど「否定されたぞ」という気持ちになってしまいがちだが、少しねちっこく考えてみると、そもそも僕が言ったことは、相手にどのように解釈されたのだろうか? 均質化されない部分、要するにマナーからどうしてもはみ出ちゃう部分が、ノイズとして感じられてしまうのではないか。何らかの意味合いを象徴してしまうことにはなるわけですよね。 僕の思ったことがそのまま相手に伝わることは原理的に不可能だし、相手は何をもってそのように判断したのか? そもそも、相手にとって「論理的である」とは何であろうか? ……というように疑問が噴出し、考えれば考えるほどわからないことばかりで、結局のところ確実にわかっていることなんて何もないような、開き直ったような気分になる。 これはある意味、補助仮説を継ぎ足したり改変したりすることで主要な仮説の反証を先延ばしにしていると言える。 作品のクオリティというか、映像的な刺激なのかもしれませんが、作品の強度みたいなものと、空間と観客が共犯関係にならないと映画館が求めるような状況にはなりえない。これがパラダイムシフトである。 小児だろうが大人だろうがインシュリンがないと死ぬのは自明なので必ず注射する。
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