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例えば、ベクトル空間の公理から出発して、導出図を用いることにより、「ある性質」が証明できたとする。その性質は、あらゆるベクトル空間において成立する。これが健全性である。逆に、あらゆるベクトル空間において成立する性質があれば、それは導出図によって必ず証明できる。これが完全性である。完全性は健全性とは違い、まったくもって非自明な性質であり、論理体系が証明をする能力を持っていることの一つの証明である。
ある目的の為の手段を講じるためには、その手段を導入するという目的が生じるため、手段のための手段、技術のための技術は必ず存在する。問題は根本にある目的をどこに据えるかである。その為には、利害関係者、手段の為の手段を講じる人達以外の議論が必須となる。その議論までもが同じ轍を踏むようであれば、議論の価値は毫もない。
現代の日本に住む人々は先述のシステムによりある程度の「分別」を賦与された。それはかつてのように勉強して得られるものではなく、国民は最低限のリテラシーのみの教育を受け、そのリテラシーの上において、各システムから思考の論理性とその根拠を取得するようになった。それに満足しているというのであれば、完全ではなくても「満足なソクラテス」になっている。そこからあえて非合理的な判断をして不満足な世界に生きる「不満足な豚」になる勇気はあなたにあるだろうか?
※本文は5/1開催の第22回文学フリマ東京にて頒布される『invert vol.3』所収の論考・対談等から引用し再構成されて作られた作品です。
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