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旅のスタートは両国駅。国技館に近い改札前の床には古地図を模した飾り付けがなされています。この古地図で、現在両国駅のある場所から少し北に「被服廠跡」のスペースがあると思います。文字どおり、陸軍の衣類を製作する工場があった場所です。この場所はその工場の移転に伴い空き地になっていましたが、一九二三年九月一日関東大震災の時、およそ四万人弱の人々がここで発生した火災旋風によって命を落としました。これは、この震災による東京都での死者の約半分です。広い空き地であったことは確かに多くの人が集まる避難場所としては良かったのですが、その分火の気も集まりやすかったのです。
筆者は札幌生まれ札幌育ちのしがない心理学徒だ。ただ、一口に心理学を勉強しているといっても、現在「心理学」はとても幅の広い分野の総称を表す言葉でしかない。「心理学専攻です」と称する二人の話が噛み合わないことはよくあることだ。それぞれの方向から「心」を解明しようとし、それぞれがお互いの方法や考え方を糾弾し合っているように(私の主観的な印象としてだが)見えてしまうのだ。
要するに、登場人物は観客からの視線を知らない。観客は一方的に見ている。一方的に見る-見られるの権力構造が成り立っている。この構造によって、観客は登場人物に対して優位に立っている。これが一種の映画の快楽であるんですよね。でも、それがヌーヴェルヴァーグ以降とかになると、登場人物のカメラ目線などによって壊されていく。すると、今度は映画っていうのは見せられているものであって、映画の方が主導権握るようになるんですよね。だって、我々は座ってて動けないんだから。
奇妙なことに、小説のなかへ登場してくる小説家というものは、生きているようには見えない。彼の作る作品については何ひとつ知らされず、ただ話したり、食べたりしている作家を見せられるだけなのである。あたかも、小説家という職業は存在していないということを証明しようとでもしているかのように、多くの職業を写実的に陳列しながら、作家業だけは避けている小説が多いのである。作家が所有している人物の表現法が、たいていの場合、作家業の人物の表現だけには適用されないという事実。それは、小説のなかの現実像と、作家の創造行為を含めた人生の現実との関係について、根本的な考察を引き出す原泉となり得るだろう。
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