冷たい街の温もり

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ホームで列車を待つ僕たちの間に、言葉が交わされることはなかった。ただ一度だけ、彼女が電車へ乗る間際にこちらを振り向いて小さく呟いた。 「幸せになってね」 その語尾に漂う切ない余韻は、春の湿気に吸い込まれてゆくよりも早く、無情に閉じられた扉に遮断されてしまった。 気がつくとカフェにはほとんど客が残っておらず、店員の囁くような音量の会話が微かに聞こえてきてくるばかりだった。すっかり冷めてしまったコーヒーをひと口啜る。冷たいものは不幸せな印象があるから、あまり好きではなかった。先刻水溜まりに突っ込んでしまった靴の内が、未だにじっとりとしていて気持ちが悪い。 以前なら絵美と顔を見合わせて、店内の妙な静けさをおかしく感じながら、小声で会話を交わしたことだろう。 彼女と離れて以来、僕はすっかり生きる目的を失っていた。別離から一箇月が経つころには、周囲への関心を取戻しつつあったものの、自分が何のために生きているのかということは依然として判っていなかった。まるで不幸のどん底にあるようだった。    2 しかし七月になったばかりのころ、僕は唐突に幸せのきっかけを手に入れたのである。 少しずつ喪失感を恢復していた僕は、ある日大学の友人に呼ばれて鶴見まで出向くことになった。彼とは語学の授業で知り合ったが、鶴見に新居を構えたので、数人の友人を招いてささやかな饗宴を開きたいのだと云う。 だが伝えられたのはアパートの外観の特徴ばかりで、それ以外には、京急鶴見駅の東口を出て沿線を南へ向かってゆけば判るという情報が与えられたのみだった。彼の駅まで出迎えるのは面倒だという発想が招いた結果らしい。 それで僕は迷った場合のことを考慮して、かなりの余裕をもって家を出た。通学の際に京急を利用することはなかったから、あの赤い車輛を間近に見るのは、絵美を見送った日以来だった。 車内はそれなりに混雑していたから坐ることもできず、僕は吊革につかまった。それから扉の閉まる間際にひとりの女性が駈け込んできて、僕の隣りに立つと、手に持っていた大きな封筒を網棚に載せた。僕はその容子を見るともなく眺めながら、よほどたくさんの書類が入っているのだろうと考えていた。
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