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彼女は間もなく京急新子安駅で慌ただしく降りていったが、僕は網棚の荷物がぽつねんと残されたままであるのに気がついた。僕のほかにそれを発見したらしい者はいない。
「すみません、封筒忘れてますよ!」
列車の入口のところに立って、そう叫んだ。すると階段に差し掛かろうとしていた女の後ろ姿が鋭い衝撃に襲われたかのように立ち止まり、一瞬茫然としたような容子を見せたかと思うと、ものすごい勢いでこちらへ引き返してきた。
「ありがとうございます!」
彼女はこちらへ駈け寄りながらそう云って、すばやく封筒を受け取った。その直後に扉は閉まり、僕らは車窓越しに向かい合ったが、間もなく電車が動き出して彼女の姿も見えなくなった。
いったいあの封筒の中身が何であるのか、僕には判らなかった。ただよほど大切なものなのだろうという見当はついた。彼女の面相はすっかり忘れてしまったけれども、ひどく安堵した容子であったことは鮮明に憶えている。
そのとき僕は、たしかに幸せを感じたのだった。あるひとりの女性を救ったという喜びが心中を満たしていた。それから紛失を免れた彼女のほうも少なからず好い気分なのではないかと気づいた僕は、そこである着想を得たのである。
それが絵美を失った悲しみを埋めるようなことは決してなかったが、しかし実に幸福ですばらしい考えだった。
僕はコーヒーを飲み干すと、その苦味を悔やみながら立ち上がり、会計を済ませて店を出た。往来の喧騒は、静謐な雨音に包まれている。
傘を差してしばらく歩くと川に行き当たる。鼠色の空に染められた水面は、雨粒を受けて緩やかな波紋を幾つも描いていた。川の一部を覆うようにして頭上に延びる高速道路が、傘に伝わる重みを少しの間だけ遮断した。
そこを過ぎて左へ曲がると、横浜駅が見えてくる。先ほどから雨脚も幾分弱まってきて、もうほとんど感じられないほどになっていたから、僕は傘を閉じて、きた西口の傍に設けられた喫煙所の近くで立ち止まった。
喫煙所では五六人の男が紫煙をくゆらせている。そこへまた新たに背広姿の男がやって来て、もの憂げな様相で煙草を銜えた。
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