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僕はしばらくその男に注目していた。世間は学生の春休みのごとき退屈とは無縁な忙しさで溢れており、彼もまた暗い表情に疲労を滲ませながら、煙の行く先を眼で追っていた。
ただそうして観察しているのも不自然なので、僕は自動販売機でまたしてもコーヒーを購入し、誰かと待ち合わせているふうを装った。冷たい苦味の残る口内を、温かい液体が流れてゆく。
やがて男は名残惜しそうに吸殻を捨て、その場を立ち去ろうとした。僕は数秒遅れて彼を追い、それから小走りになってその脇を通り抜ける。
「痛っ!」
僕は何かにつまずいたように派手に転び、手にしていた財布の中身を路上にばらまいてしまった。数枚の小銭がころころと転がってゆく。
「大丈夫ですか」
後ろで男の声がし、散らばった小銭を集めはじめる。僕はなるたけ自然に表情をゆがめながら、その容子を見守る。やがてすべての回収を終えた彼は、それらを財布に仕舞って返してくれた。
「すみません、ほんとに助かりました。ありがとうございます」
僕は立ち上がりながら礼を述べる。男はちょっと照れたように返事をした。それから僕はふと思いついたというように口を開く。
「助けていただいたお礼と云ってはなんですが、このあとお茶でもいかがでしょうか」
「いや、助けただなんて大袈裟ですよ。気持ちはありがたく受け取ります」
「しかしそれでは僕のほうがすっきりしないのです。それから失礼ですが、あなたは何か深い悩みを抱えているように見えます」
これではまるで宗教の勧誘のようだと思いながら、僕はそう云った。男はちょっと驚いたような表情で、こちらを見返した。
「まったく厚かましいようですが、少しお話をうかがえないかと思いまして」
僕の発言はほとんど直感によるものだったが、彼なりに思い当たるところがあるらしく、ためらう素振りを見せながらも承諾してくれた。社会人を接待するのに余りにも安い店を選ぶのも却って失礼かと思われたが、僕にはそれほどの財力が具わっていないから、結局近所のファミリーレストランに案内することにした。
歩を進めながら、今後の展開について考えを巡らす。
絵美との別離を幾らか慰めたかつての幸福、あの列車での一件から発想を得たのが、最前の演技から始まる一連の施策だった。
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