冷たい街の温もり

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昨日観察していた喫煙所へ出向いてみたが、浜井さんの姿はなかった。そのまま西口のほうへと歩を進める。 正面から、暗い面差しの女性がやって来るのが見えた。三十路を少し越えているようであるが、眉目は艶やかな美しさをまとっており、その思いつめたような影ばかりが惜しいように思われる。 そこで擦れ違いざまに、僕は昨日とまったく同じ演技を繰り返した。果たして彼女は僕の撒いた小銭を集めてくれ、礼に対して表情をほころばせたけれども、こちらがそれ以上の提案をする間もなく立ち去ってしまった。 それでも、彼女がささやかな喜びを感じてくれたのならそれで好い。僕は衣服の汚れを払うと、ふたたび歩き出そうとした。 「あの、すみません」 唐突に背後から声をかけられた。振り向くと、同年代らしい女性が不安の面持ちで佇立している。 「さっきの、わざとですよね」 その瞬間、僕は自らが蒼ざめてゆくのを感じた。すこぶる兇悪な罪状を告発されたかのような絶望が、身体の隅々にじわりと広がってゆく。 それを見た彼女は、すっかり周章した容子で付け加えた。 「あ、すみません、別にあなたを責めようとか、そういうことじゃないんです。ただ昨日も同じことをしているのを見かけたので、もしかしたら演技なのかなって、つい気になっちゃって」 僕は狼狽してしまって、うまく応えることができなかった。ただ変質者の類いに勘違いされるのも好ましくなかったから、カフェに場所を移して、そこできちんと説明することにした。 自分が尋常の人間であることを証明するような心持ちで、身分を説明した。新年度から大学三年生だと伝えると、彼女も同様だと云う。 「今日はほんとにいきなり声をかけてすみませんでした。わたし、紫野ひな乃と申します。実家は戸塚のほうなんですけど、通学するのに横浜で乗り換えるから、よく遊びに来るんです」 彼女の口吻にはどこか無垢な響きがあり、懸命に言葉を紡いでいる容子が愛くるしさを感じさせた。面容もどことなく小動物を思わせるところがあり、緩くパーマのかかった髪を時折り指先でいじる仕種が似つかわしい。 それからいろいろの話柄を巡るうちに、僕たちが同じ大学に通っていることが判明した。属する学部は違ったけれども、キャンパス内で擦れ違っている可能性は大いにあった。 「それで、さっきのことをお訊ねしてもいいですか」
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