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徳慈郎の幻 弐
ともに東村山村[現・東村山市]の出、もはや莫逆というに相応しい幼馴染みの妻である。三つ歳下で、物心がつけばすでに徳慈郎の背を「徳ちゃん徳ちゃん」と追っていた快濶な女である。蹴毬が得意で、西洋文化に関心が厚く、中村不折やラファエル・コランに憧憬するほど垢抜けている女であった。
しかし、大戦を契機にたちまち児戯とは無縁の現実的な淑女へと豹変。間もなく、欷泣の掌を扇がれたあの出兵の波止場を徳慈郎は永劫に忘れぬ。あれほど赤紙に「勝ってくださいませ」と鼓舞した清勝なる掌が、よもや涙に頽れようとは。
当たり前のように結婚したが、惹かれていたのだと思い知らされたものである。ゆえに、生きて帰ろうと胸裡に秘めたものである。幻さえも、見たのである。
やがて、
「兄ちゃんおなかがすいた」
晩年の妻は、徳慈郎に兄の姿を見るようになっていた。とうに虎狼狸で他界している実兄である。あげくには、蹴毬の報酬を求める無邪気さで贅を所望するのである。質素倹約を礎に、秘めるが花の誇りであった調理師免許をまさか破棄したかのように。
「兄ちゃんドロップ買って?」
「徳ちゃん」ではない。別の家族を網膜に見ていた。さらに、徳慈郎がなにもできずに茫然としていると、寝たきりの痩せ衰えた腕力を敷布団に幾度も叩きつけながら、
「買って買って買って!」
駄駄を捏ねた。妻はもう、妻ではなくなっていた。
待ってくれ、置いていかないでくれ──逸る思いは日ごとに高まり、ついに頂に達した朝、妻はようやくの穏やかなる面影を残し、徳慈郎の悪夢とともに永眠。
五年前、晩夏の別れである。
片時として忘れようはずもなかった。しかし、息子夫婦の達ての奨めもあり、ひとりの時間を楽しもうと努めることに。釣り堀、ペタンク、カラオケにも足を運んだ。この年齢にして友人もできた。忘れっぽい友人ばかりで、しかし、己の将来に置き換えれば指摘などとうてい赦されず、苦笑に満ちる五年間であったようにも思う。とはいえ、携帯電話が口遊めば嬉しいものであったし、なかんずく、大相撲の取組だけは皆で違わずに具陳しあえたものである。
ゆえに、妻の顔もまた幾度となく頭に蘇った。良心の呵責があったのやも知れぬ。無慈悲にも己だけが今生を謳歌し、空閨を嫌い、あげくには遺影さえも無視する日日だったのだから。
そんな折りに出会した、奇天烈な光景である。
上から目線の贈り物。
贈られて当然の謝礼。
噛みあっておらぬ摩訶不思議な光景。
蠱いの儀式ではないらしい。これで愛の交換の儀式だそうである。天下の国営放送までもが欣喜して宣うのだからもはや間違いあるまい。
愛の交換。
愛の儀式。
愛とは、
(幻である)
極地に見た幻。
妻でなくなっていく幻。
不安と焦燥。
愛とは、そういうものである。
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