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徳慈郎の幻 肆
復員した事実もとうの昔となったある日のこと。忘れもせぬ、焦げつく入道雲を遥かなる民家の屋根に望んだ、いつになく涼しい終戦記念日の薄暮のことである。
徳慈郎は縁側にどっかりと座し、夕立の有無を推理していた。この時、骨の炬燵に正座を寛がせ、背後にいる妻は料理本を繙いていただろう。息子嫁と世代交代の密約は交わしていたようだが、なにぶん匙加減を知らぬ彼の嫁である、いつでも未曾有の惨劇に駆けつけられるよう、妻はこうして万全の状態を保つための研鑽に余念がなかった。
けちゃ。こちゃ。皿と皿のぶつかりあう、妻ならば血迷っても立てぬであろう粗野な音声が厨から漏れてくる。しゅんしゅんという圧力鍋の鼻息もどこか乱調に聞こえる。気象予報士の真似事をしていた徳慈郎の脳裡にさえ、野菜の旨味が一目散に逃げていく絶望的な危惧がよぎらぬでもなかった。あげくには「これすてろをる」とかいう添加物満載の欧米料理のような名称までもがよぎる始末。
しかし、しょせん徳慈郎は馳走に関る身。内政干渉は憚られ、
「終戦か」
ひとりごちて思考転換。
「意外と忘れるものだな」
当事者なるも、実に習慣とは恐ろしい。今日がその日なりとわかってはいるものの、便宜的に実感が湧かなくなっている。
眼前で莫逆の友が死に、死を覚悟し、米軍機より撒かれる終戦のビラを読んでもなお涙の溢れなかった徳慈郎である。とはいえ、悲しくなかったわけでも悔しくなかったわけでもない。どんなに悲しもうとも、詫びようとも、涙の流れぬ肉体に変えてしまうのが戦争というものだったのである。復員して長らくを燃え尽き症候群となっていた時も、基督教会の施しを受けて疎開中の妻と再会できた時も、虚しい心や昂る心を裏切るかのように、徳慈郎の肉体は涙を韜晦させていた。
それほどまでの激戦であったにも関わらず、
「口ではどうこういえるが、平和は慣れるものだな。慣れると、惚けるものだな」
ゆえなる「記念日」なのであろう。
「あんなにも怖い思いをしたというのに」
いまだ悪夢に魘されている者とも思えぬ軽口を叩く徳慈郎に対し、不意に、
「私はまだ怖いですよ」
背後から声が返ってきた。笑むでなく悲しむでもない、これもまたひとりごとの調子で、まるで降りはじめの雨音のよう。
「ほう。そうかね。まだ怖いかね」
息子を背負い、空襲の炎を分けたのだという。小さくも重い命を背負い、後ろ髪を引き千切りながら駆け抜けたのだという。さぞや怖かったことであろう。
しかし、妻の次なる台詞は、徳慈郎の想像とは大きく異なるものだった。
「徳慈郎さんに怖さをおぼえます」
「なに?」
面喰らい、にわかに上半身を振り返る。しかし、清貧をこよなく愛する妻のこと、夫婦の部屋はあまりにも暗く、彼女の小柄な肢体は墨汁だけで完成させた塗り絵のよう。
「俺の、ど、どこが怖い?」
引き攣った笑みを浮かべて怖怖と問う。すると、妻はゆっくりと、長雨の静けさでこう説いた。
「子や孫のある者が、同じく子や孫のある者を殺しているのかも知れません。愛国という綾のために」
目線と同じ高さに、ふたつの黒が明滅している。
「当時ならば、詮方ないことだった──で済みますが、今はどうでしょう。豊かになった今の時代は」
月夜の湖のよう。
「もしも私に、銃剣や薙刀で米兵や強盗を殺した過去があるとすれば、今の徳慈郎さんはどう思われましょう」
りん。
どこか遠くで、風鈴が哭いた。
「ば」
莫迦な、妻にかぎってそんな──とっさに、徳慈郎は一笑のもとに伏さんとした。
しかし、
「まさか徳慈郎さんにかぎってと私は信頼しています。ですが、そのマサカを為遂げさせるのもまたあの大戦でした」
黙らざるを得なかった。もしも、
「それが戦争というものでした」
家族のために料理本を繙く妻の手が、かつて人を殺していたとすれば。
「戦争を知らない者はただ大局的に戦争を捉え、あくまでも負の遺産と見做し、歴史と見做して、愚かであったと片づけます。ですが、戦争を知る者の心情は、もっと複雑ですもの」
敵とはいえ、もしもその人を殺していたとすれば。
「責めたくもない、衷心より慕っている人に、もしやそんな過去があるのだろうかと思うと、当時の時局も含め、いまだに複雑です」
もしも殺人を犯していたのだとすれば。墓場にまで持っていくつもりで、ただ単に噤んでいるだけなのやも知れぬとすれば。
引力に敗れて項垂れる徳慈郎。慄然として妻のマサカに声を失った。
確かに、戦争はそれを為遂げさせる。
すると、
「徳ちゃ……徳慈郎さんは」
聞き逃さなかった。通称でない、久久の愛称を半分だけ耳に、我に返って徳慈郎は顔をあげた。
子供のように潤んだ輝きがふたつ、今にも決壊しそうなほどに生き生きと闇の中に浮かんでいる。
胸が早鐘を打つ。
本気で夫を訝っているのだろうか。
それはない……と思う。少なくとも、誰を殺したなどと指を折っている心の余裕はなかった。明瞭なものとして、一度だけ闇に向かって発砲した記憶はある。が、敵兵の襲来かと錯乱する戦友に乗じて撃っただけであり、上官には盲滅法に撃つなと軍人精神注入棒で殴打されたし、死体もなかった。それどころか、間もなく銃は根詰まりを起こし、手入れがなっとらんと再び殴打され、無手のままに後方支援へと回された。
残されたのは、その後方だけであった。勇敢なる友はみな、銃弾に斃れ、空襲に沈み、手榴弾で微塵となり、枯野や岩場の残骸か、あるいは浜辺や沖合の漂流物と化した。
殺された彼等にも家族はあるが、殺した彼等にも家族はある。
かつて、祖父母が、父母が、夫妻が、恋人が、兄姉が、弟妹が、子が、孫が、友が、師が、人を殺した。人を殺して復員し、人殺しの歴史を背負ったまま家庭を営む。
「徳ちゃん徳ちゃん」と無邪気に背中をついてきた娘が、やがて人殺しとなったら。
当たり前のように恋慕した女が、やがて人殺しとなったら。
妻が、人殺しだったら。
「俺は、誰も……」
「いいえ。なにも仰有らないでください。ただ、祈らせてください」
考えるだに恐ろしい。怖い。儚い。
「どうか、平和を祈らせてください。だって、私はいつの時も──」
心を透かすほどに涼やかなる夏であった。徳慈郎の知らぬ妻と、妻の知らぬ徳慈郎があるいはどこかにいるのやも知れぬ、胸を剔る夏であった。
「徳井徳慈郎という幻を見ているのです」
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