上ノ一

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「――――痛ぁ……」  倒れた自転車から何とか引きずり出した脚の膝からは血が出ており、よしのは思わず声をあげる。出血は分からないが肘や手首も痛い。  一瞬の出来事だった。仕事が終わって疲れた足で自転車を漕いでいると後ろから一台の自転車が並んだ、と思った瞬間手が伸びて身体を触られた。小さな悲鳴をあげた時にはその手を避けるように身体は傾いて、ぐしゃりと自転車ごと倒れていた。相手は既に走り去っていて、どんな自転車かも覚えていない。  蛍光灯の弱い光が照らす路地の端にへたり込んでいるうち、先程の感触を思い出し、払えるわけでもないのにそこを強く叩く。叩いて痛んだ方がまだ忘れられそうに思えた。眼に涙が滲むのは今の痴漢のせいだけではない。  四月に新卒として入社してからというもの、ここひと月嫌な思いをしなかった日は無かった。  同じ課の先輩女性はろくに教えもしないのに間違えれば嫌味を言い、間違えずにやれば面白く無さそうな顔をした。男性社員や他の課のアシスタントの前では笑顔を見せて優しい先輩面をする彼女のおかげで、GW明けの今もまだ胃の痛い日々が続いている。やっと帰路に着いてほっとしたのも束の間――――そう思うとぼろぼろと涙がこぼれ、嗚咽が漏れる。擦り剥いた膝を投げ出してしゃくり上げていると、また一台の自転車が近付いて来る音がした。  ――――ギィ、ギィ、と、油の切れた古い自転車を漕ぐ音が、ゆっくり、ゆっくりと暗闇の中からこちらに向かって来る。またおかしな男だったら、というのと恥ずかしいのとで立ち上がろうとしたが、痛みと今のショックでなかなか動けない。見つめていると、軋む音と共にぼんやりと見えてきたのは赤い自転車だった。丸い籐製の前籠にはどこか見覚えがある。どこで見たのかと思っていると 「萩原さん?」 と若い男の声がした。 「え……?」  キキィ、と軋んだ音を立てて赤い自転車は少し手前で停まった。 「萩原、よしのさんでしょ?」  笑った顔は、四年の月日を経て記憶とは少し違っていたけれど面影は変わらなかった。 「……露木?」 「うん。……久しぶり」  彼、露木(すなお)は自転車を下りてよしのの傍らにしゃがみ込む。
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