第1章:優しさが消えた春

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仕事と家の往復だけを繰り返す平日。 日が傾いた、春の午後はまだ少しだけ寒い。 「ただいまー」 珍しく電気がついていない玄関先で、扉を閉めながら声をかける。 「かーける~?」 玄関の扉が完全に閉まると、電気の点いていない玄関は一瞬で闇が支配する。 私は、リビングに居るであろう人物の名前を呼んだ。 いつもなら、「おかえり」とリビングから笑顔で出迎えてくれる翔が、今日は顔を出さない。 なんとなく、鍵を開ける時から違和感を感じていた。 それは言い表しようのないもので、唯の思いすごしだと思っていた。 しかし鍵を開けた今、その違和感がくっきりと輪郭を縁ったように現れた。 ―…靴が、ない。 いつもなら、玄関に入ってすぐ左手にあるシューズクロークの下のスペースに、翔愛用の白いスニーカーが置いてあるのに、今日はなかった。 飼い猫が居なくなってしまったような焦燥感が、一気に全身を駆け巡る。 私は玄関でパンプスを脱ぎ捨てると、勢いよくリビングの扉を開けた。 濃い色の木目調の扉の先には、薄暗い十二畳のリビング。 「翔?」 その薄暗いリビングに人影がないことを確認すると、次に寝室の扉を開ける。 六畳の寝室には、大きすぎるダブルベッド。丁寧にベッドメイキングされている風景は、いつもと同じ。 洗面所、トイレ、浴室。 この家の全ての扉を開けたけれど、そのどの部屋も暗くて。 誰もいないこの家は、春先とは思えないほど冷たかった。 ―…リビングの中央にあるローテーブルの上に異常な存在感を放つ置き手紙があったけれど、見て見ぬフリをした。 その手紙の存在を認め、手に取ってしまったら、本当にこの家に一人きりになってしまうような気がしたから。 「…もしかしたら、コンビニに行ってるのかも」 誰もいない空っぽの部屋では、独り言がよく響く。 私はスーツも脱がずに全ての荷物を玄関に置いたまま、再び脱ぎ捨てたパンプスを履いて家を出た。 あの部屋で見たもの全部、なかったかのように。 あれ、どうしたの?なんて言って笑って。 アイスの入ったコンビニ袋を提げて、私の元に駆け寄ってくる。 何時も通りの翔の姿を、脳内で勝手に作り出した。 勿論、そんなことあるわけないのに。 それでも、脳内が都合よく合成した翔の姿を追っていると、 「―…葵?」 背後から、私を呼ぶ声が聞こえた。
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