1.この熱を感じられるだけでいい

8/21
1947人が本棚に入れています
本棚に追加
/193ページ
今日食事をすることになった“みやみや”は、居酒屋風のお店だった。 入った瞬間、威勢のいい店員さんの声に出迎えられ、つい杉浦くんと顔を合わせて笑ってしまった。 こういうご飯屋さんに入った時に気になってしまうのは、周りにいるお客さん。 知っている顔がいないか、つい気になってしまうんだ。 もし杉浦くんとふたりでいるところを誰かに見られてしまった時に、ちゃんと誤魔化せるのだろうかという不安があるから。 でもそんな不安はいつも杞憂に終わる。 今日も例に漏れず、知っている人に会うことはなく、無事に食事にありつけたのだった。 “みやみや”は最近行ったご飯屋さんの中でも当たりのお店で、どの料理も美味しいものばかりだった。 杉浦くんの言っていた通りメニューも豊富で、あれこれと悩みながらも、私たちはお腹いっぱいになるまで楽しく食事をした。 食べられなかったメニューもあったから杉浦くんとまた来れたらいいなと思ったけど、「また来ようね」なんて言葉は私の口からも杉浦くんの口からも出ることはなくて……。 もしも私たちが普通の恋人同士だったら何のためらいもなく誘えたのかな……、と思ってしまいそうになった思考は、すぐに自分の中から追い出した。 せっかくの楽しい気分を、虚しくなるようなたとえ話で上書きする必要はない。 食事を済ませた後、私たちは車を停めているパーキングに向かってゆっくりとしたペースで歩いていた。 日はすっかり水平線の向こうに沈んでしまったけど、昼間の暑さの残りを含んだ生ぬるい風が街を吹きわたる。 「梓(あずさ)さん」 これからの時間を考えてしまって少しずつ速度を増していく鼓動を感じながら歩いていると、斜め上から名前を呼ばれた。 ……杉浦くんが私の前でだけ呼んでくれる、その名前を。 私は平静を装いながらその声を見上げ、首を小さく傾げる。 「うん?」 「今日、大丈夫ですか?」 「……うん」 少し緊張を含ませた表情で言葉少なめに意思確認をしてきた杉浦くんに私が頷くと、「良かった」と杉浦くんが笑みを溢し、大きな手が私の手を包み込んできた。 ここは外だし人目もあるけど、私たちの手が繋がっていることは夜の暗さがうまく隠してくれる。 お互いの手のひらにじわりと浮かぶ汗が混ざり合っていく。
/193ページ

最初のコメントを投稿しよう!