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D坂の殺人事件とは──大正9年に古本屋の妻が絞殺体で発見されて、それがソバ屋の主人の犯行だと判明した事件だ。
巷間の噂では、明智小五郎という書生がそれを推理したと聞く。
「あたしは犯人であるソバ屋の妻です。でも、奥様はあたしの大事な恋人だったのよ!」
女が悲痛な声で叫んで、そろりとマスクを取った。
「ひいッ」私は呻いた。女の顔には、しなびた皮のようなモノが張りついていたからだ。
「それはネクロマスクだな。西洋の魔術師は墓場から掘り起こした死者の皮膚を剥いで、それを身につけて魔術のチカラを得ると聞いたが」
寺田がほそい声で言った。
「それでは、あれは殺された妻の顔から剥いだ皮膚!?」
私が悲鳴にちかい声で言うと、女が殯の笛を口に当てて吹きはじめた。
飄幽────♪、飄幽────♪
その笛の音は、暗い洞窟から吹いてくるかのように、昏く悲しい音色であった。
ところが、その笛の音に呼応するかのように、しなびたネクロマスクが雪を欺くような白い肌に変貌していった。
それはまるで能の女面のように、幽玄の美が色を差していた。
「ぐうっ…ぬうっ…」
その幽玄の面とは逆に、女の苦しみもがく声が漏れだした。
女が苦しみのあまり、着ている服を剥いで裸になる。女の皮膚の内側で、なにかが這いずり蠢いていた。
「教授……あれは一体なんですかッ!?」
「殯の笛とは、黄泉に墜ちた死者を現世に戻す禁断の笛。
それゆえに禁忌で、渋沢翁が儂に始末を依頼したのだよ」
「それでは、あれは黄泉返る死者ですか?」
「ネクロマスクを造ったのは良いが、それが全身でないのが問題なのだよ。
顔だけしか死者が蘇らず、肉体の内部で死者が抜けだそうとしておるのだよ」
女は苦しくて笛を離したいが、能面の女がそれを許さずに笛を吹いていた。
飄幽────♪、飄幽────♪
狂わしくおぞましく──それは身の毛もよだつ陰惨たる光景だった。
私はそれを見て、古事記の逸話を思い出していた。
黄泉に墜ちたイザナミが、逃げだしたイザナギを追い駆けるのに黄泉醜女(よもつしこめ)を放った逸話である。
黄泉醜女は黄泉の鬼女──それが殯の笛を吹く女の肉体を破って、現世に現れようとしていた。
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