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少年がそう呟いたけれど、少女はそれを聞いていなかったようで、さらにこう続けた。
「何でそう、あんたって節操がないの。次から次へと獲物を食い散らかして!」
「いや、節操がないわけじゃないよ。俺にだって、好みってのがあるしさ」
だんだん、少年の声色が冴えないものになっていく。どうやら、この少女には頭が上がらないといった様子である。
「とにかく、記憶操作してから帰るわよ。この人間に変なこと言いふらされたら困るもの」
記憶操作?
私がぼんやりとしたままの頭でその言葉の意味を考える。そして、一瞬遅れてからぞっとした。
何をされるのか解らないからこそ、不安になる。
「記憶操作……しなくちゃ駄目かな」
しかし、少年は笑いながら言う。「俺、そのお兄さんの味、気に入ったんだよね」
「何言ってんの! あんた、バカ?」
「頼むよ」
「駄目。早くなさい」
「ちぇー」
少年はやがてあきらめたように笑うと、その手を私に伸ばした。私は慌てて立ち上がり、すぐにその場から離れようとしたものの、彼の手からは逃げられなかった。
「ごめん」
少年の吐息が私の耳元で感じられた。
私が何か言う前に、彼が小さく言った。まるで、少女には内緒だ、と言わんばかりの声で。
「また、会いにくるから」
会いたくない、と言いたかった。でも、すぐに気が遠くなって、それどころではなくなっていたのだ。
ずるずるとその場に崩れ落ち、そして気がついたら。
「……あれ」
私は困惑して辺りを見回していた。
持っていたスーパーのビニール袋はいつの間にか地面に落ちていて、自分がなぜこんな場所に座り込んでいるのか思い出せない。
何かあったのだろうか?
どんなに考えてみても、仕事の帰りにこの道を通った、ということくらいしか覚えていないのだ。
私はやがて汚れたズボンを軽く叩くと、そのままアパートに向かって歩き出した。
このときの私は、何もかも忘れていたのだ。
遠からず、また問題の少年に会うことになろうとは知らなかった。
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