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「お口を開けてください」
先生は涙目のまま、私を見つめた。その両手はアームレストをきつく握りしめていた。怯えるようなまなざしに少しいらっとする。タービンを持ったまま、先生に顔を寄せた。
「大丈夫ですよ」
先生に微笑みかける。
「私に任せてください。学校ではあなたが先生でしたけど、ここでは私が『先生』ですから」
一瞬の逡巡の後、彼は小さくうなずいた。そうよ、私にすべてを任せて。ちゃんと健康な歯に戻してあげますからね。
私は彼の口の中にタービンを差し入れた。
………
治療を終え、私はこれまで味わったことのない充足感に満たされていた。治療イスのそばにスツールを寄せて、彼とこれからのスケジュールを相談する。
「治療は済みましたけど。予防のために歯石のクリーニングをしておきましょうね。今だったら来週の水曜日の五時半の予約がとれますよ」
「お願い……します」
彼は茫然とした面持ちのまま答えた。まだ初めての治療のショックから回復していないみたいだ。
「一番最後の時間枠だから少し後ろにずれるかもしれませんけど、大丈夫。いくら遅くなってもちゃんと最後までやらさせていただきますから」
「はい」
スケジュール表に記入しながら、ふと思いついた疑問があった。
「そういえば、前は甘いものは苦手じゃなかったですか? お菓子の差し入れがあっても受け取らなかったりして。どうして虫歯になんか?」
「ああ」
彼は治療イスに寝そべったまま答えた。
「今でも苦手なんだけどね。嫁さんがお菓子作りのサークルに入っていて……」
彼の言葉を聞いた瞬間、動転して息が止まってしまった。手から落ちそうになったペンをあわてて握り直す。
「魔女の何とかいう名前のサークルで、週一回、作ったお菓子を持って帰ってくるんだ。それを食べないわけにはいかなくてね」
「そ、そうなんですか」
自分の声が裏返ってしまってないか、心配しながら彼の顔を見る。彼は何も気づいていないようだった。そっと息を整えてから、会話を再開する。
「奥様の気持ちを考えたら食べないわけにはいけませんよね。でも、あなたの歯も心配だし……。どうかしら、歯の治療をしたことを話して、食べる量をこれまでの半分で許してもらったら」
「そうだね。それがいいかもしれない」
「気を付けてくださいね」
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