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ジョニーウォーカーの空き瓶を抱えこみ、黒猫のナナは今日もまぁるくある。
掌サイズの猫である。
広々とした乳白色のテーブル。塵も埃も降り立っていない几帳面なテーブル。そこそこ値が張ったことだろうテーブル。つまり、なんの変哲もないテーブル。
その上にまぁるくあるのがナナの勤め。生き物としての努めに縛られない風来の勤め。自然体だと羨まれる勤め。つまり、なにかしら変哲のある勤め。
もちろん、ナナの頭の辞書に「勤労」の2文字はない。まして「我が辞書に」という文学もなく、ただ単にこのテーブルのまんなかを気に入っているというだけのこと。ただ単にそれだけのこと。
ところが、斯くあるナナを見るにつけ、必ず人間は自嘲する。
『お気楽で羨ましいかぎりだよお猫サマは』
遜り、嘆息する。人間という、生態系における絶対的優位の立場を固持した上で、あえて最下位の道化を演じる。
これぞ自虐の技術である。彼らはみな、のっぴきならない現実に直面している。同類間における苦悩である。同族嫌悪もやむなしの宿命的な懊悩である。ゆえに、あえて種族の垣根を越境する。しかして人間そのものを生態系の劣位へと降格させる。こうすることで、どうせ劣位なのだからと、人間だものと開きなおることができる。溜飲をさげることのできる技術である。とどのつまり、人間であるところにしがみつき、どうか人間として生き延びていたいという潜在意欲を叶えんがための苦肉の策である。
そんな、いっぽうでは及び腰のくせに、もういっぽうではちまちまと邁進する技術を模索している人間のほうがどれだけお気楽な風来坊だろうかと、ナナは思わない。
思う頭がない。
連中の冷笑的な謙遜をわずか瞥見するのみにし、ふたたび静かに瞼をつむる。なんの変哲もない世界と一体化しなおす。そこに怒りはなく、哀れみもない。黒曜石を思わせる滑らかな肢体を午睡の呼吸にあてるだけ。
まぁるくある──ただそれだけ。
「人間って」
静寂を割き、この几帳面な飼い主は例によって最終的にまとまらなくなるだろう口上をぼそりとつぶやきはじめた。後ろ手に傾いだ姿勢はいかにも傲岸不遜のふうだが、いつもの例によれば破綻して取り乱すのも時間の問題である。
とはいえナナは、それが彼の企画力や構成力の未熟さが原因であると思わない。
思う頭がない。
ゆえに、このあと彼がさんざんな目にあうだろうという憶測も働かない。むしろ寝息のほうを働かせている。
「いつからヒエラルキーの頂を」
もうすでに学習ずみ──という点では、彼女もナナと似たようなものらしく、
「は?」
うんざりとした顔で語尾を遮った。
「なにその冷たい掃除機は?」
「いや。ヒ、ヒエラルキーだよ」
「冷たい除湿機?」
「いや。階層制の、あれだよ」
「海洋深層水?」
「いや。か、階層せ」
「ばかばかしい」
相変わらずの深い眉間の皺で剛速球を放ると、絵心は気弱な飼い主からぷいとまなざしをそらした。テーブルに頬杖をついて顔の右半分をリフトアップ、それが原因でせっかくの美人が娯楽性の見えない罰ゲームのようになっている。
これまで1度もカーラーをあてたことがないのになぜかぐねぐねとしている髪は、実際の長さを拒否してボブを演じている。とっくの昔にあきらめているつもりらしいのだが、一縷の修復願望を深層心理に匿ってでもいるのか焦れったそうな眉間を常態化させている。つまり、狐のように鋭利な眦も、深く沈んだ左右の口角も、ドスのきいている口調もみな、絵心の、諦念と希望のぶつかりあう繊細さの象徴だった。
「あぁ馬鹿馬鹿しい」
「絵心」と書いて「えこ」と読むのだが、そんな国語をナナは知らない。彼女が完全無欠の利己主義者であるという保健体育も、名前を揶揄う男子どもを片っぱしから下僕にしてきたという歴史も知らない。
とはいえナナは、こんな絵心のことをどうでもいいと思っているわけではない。
思う頭がない。
まぁるいまま、微動だにしない。微動だにしないということをしている──ただそれだけ。
「馬鹿馬鹿しいとは、なんだよ」
ナナをまんなかにしてその対面、上半身を前に乗り出そうと試みたようだが透明な壁に立ちふさがれたかのごとくぴくりとも動けなかった壬己が反抗の口火を切った。華奢に尖る顎をわずかにあげ、明らかに無理矢理とわかる上から目線をこさえる。しかし、急勾配にさがる眉尻が邪魔をしてか、猛烈に反論したいらしい思惑とは裏腹にやはり困ったような顔になっている。
健康的な肌に憧れて外出に励むのだが、生粋の色白を焼くにはいたらず、周囲から気弱そう几帳面そうと欲しくもない履歴を植えつけられる日々が不満であるらしい。しかし、いかんせん反駁の語彙に乏しく、結果的に気弱な眉尻を常態化させている。つまり、犬のような狗尾続貂の眦も、深く沈んだ左右の口角も、吃音の混じる口調もみな、壬己の、不満と希望のぶつかりあう繊細さの象徴だった。
「馬鹿馬鹿しいとは」
「壬己」と書いて「みき」と読むのだが、そんな国語をナナは知らない。彼が完全無欠の厭世主義者を気取りたがっているつまり陶酔主義者であるという心理学も、名前の音といい、なんとなし「王子」と読めることといい、とにかく名前で苛められてきたという歴史も知らない。
とはいえナナは、こんな壬己のことをどうでもいいと思っているわけではない。
思う頭がない。
まぁるいまま、寝息を立てる。寝るということをしている──ただそれだけ。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
すかさず匕首が断罪。そのチュニックを彩る紫紺や桃の花嵐が醸し出すものはもしや着る者によっては平和的友好的な雰囲気となるのかも知れない。しかし残念ながら絵心の場合、繊細な象徴のせいで棘や毒までもが付帯されている。
「階層制? ヒエラルキー? どの類のピラミッドのことを言ってんの?」
毒のある棘でぎろりと睨めつけ、
「組織構造? グレード? カースト? 社会的なもの? 一般的なもの? 俗的なもの? ヒエラルキーにもいろいろとあるんだけど? つっか人間って言ったよね? もしかして宇宙規模で語ろうとしたつもりじゃないだろね? だったらまず人間ってものを定義しておくのが筋なんだけど?」
早口言葉で捲し立てると、
「人間ってなに?」
ふたたび、そっぽ。
「それがわからないのが人間サマよ」
ふん。鼻息でしめくくった。
この間、ナナは1度だけ瞼を開けた。どうやら「カースト」という音に引っかかったらしい。ただ、べつに「ガスト」と聞こえたのでもなければガストに行ったこともなく、要するに破裂音に聞こえたという程度の理由であり、ふたたび何事もなく瞼を閉じた。
西陽が斜めに射しこんでいる。わずか白の勝る簡素な部屋は黄金の暖色をじっくりと真似ている。夏なので実際は暖かいどころか涸れるほどに暑い。壬己のエコな性格もあって本来ならば茹だっていてもおかしくはないのだが、約15分前にふらりと訪ねてきた絵心の環境破壊活動のおかげでむしろ忍耐力が試されるほどのエアコンに恵まれている。もちろん人間よりも体温調節のできるナナには適温。
ナナは絵心が好きである。気が向けば懐く。ただし、気弱なくせに自意識過剰でもあるがゆえにペットにまで過酷な試練を課そうとするこの向こう見ずな飼い主から忌憚のない鞭撻でもって救出してくださるから好き──とかいう新興宗教的な理由であるはずもない。絵心の無頼漢な遊び心がナナの嗜好的な琴線によく触れるという、ただそれだけの話である。
教科書どおりのお遊戯しか知らない壬己と較べ、絵心の気紛れな手癖足癖のほうがどれだけナナをくすぐったことか。だからナナは絵心が好きだった。
気が向けば──の話だが。
結局はそういうことである。どこまで行ってもナナはナナでしかなく、よもや恩情や担保に左右されるわけもない。ナナのある世界に壬己や絵心が居る場合にかぎり、そのいずれかに懐きの催促を向ける可能性があるという風見鶏な確率論にすぎない。居ないのならば居ないでべつにかまわない。孤独であっても満足できるし、そもそも孤独を思わない。もしもその真実を知った彼らが落胆したとしても、落胆させてしまったことをナナが気に病むことももちろんない。
そう、黒曜石に色は交わらない。
──とかいう文学は人間による勝手な感想文の押し売りなのであり、ナナにはまるで無関係な話である。厳密に言えば押し売りかどうかという疑問符にまでもナナの思考はいたらない。
思う頭がない。
だいたい、
「だいたいさぁ」
壬己と絵心が恋仲にあるという関係をナナは知らない。知りたいと思う頭がない。彼を壬己だと認識している、彼女を絵心だと認識してもいるが、しかし壬己と絵心の関係性についてまでを認識しようとする頭はない。毛頭ない。どうでもいいとコメントするような自己顕示的な指向性ではなく、ただ単に認識にいたらないだけである。壬己は壬己で絵心は絵心──それだけの能動因子さえあればナナは満足に生きていられる。
「あんたはさ、語りたいだけなわけ。で、あわよくば討論会で主導権を握っていたいもんだからなんとなく難しそうな雰囲気の学問の上澄みをせっせと網ですくってる。どうせすぐ破れるくせに」
ナナと出会った時、壬己にはまだ恋人がいなかった。いつの間にやら絵心を恋人に迎え入れていたわけだが、それがいつのことなのかをナナは憶えていない。というか、当初の、彼に恋人がいなかったという事実さえも憶えていない。憶えようとする頭がない。ナナの琴線に触れるお遊戯を提供してくれるので絵心は好きなのだが、だからと言って「壬己とつきあってくださった」などと感謝めいたことを思うわけもない。
「相手のことを無知だとか無学だとかって見損なってるからそんな馬鹿で間抜けで半端なことしか言えないのよ」
そう捲し立てる絵心が、すでに沈黙することしか術のなくなっている不憫な壬己のことをどう愛しているのか、ナナは知らない。知りたいと思う頭がない。愛だの恋だのと思い描こうとする詩的冒険心がない。ナナにとって、そういう概念はあくまでも電気信号にすぎないのであり、おたがいに論法を共有しあって調和を模索するような鵬程万里な護身術ではない。むしろ、彼らのそれはナナにとって砂嵐に等しい。
「ヒエラルキーの頂に立ちたがってんのは他ならぬあんたのほうだわクズが」
砂嵐に貸すような耳はない。
まぁるくある──ただそれだけ。
それが証拠にナナは、
「何様のつもりだろねクズのくせに」
くかぁと欠伸を絞り出した。
壬己の母方の親戚宅からもらわれてきたナナ。ナナの母もまた黒猫であり、名前を「トト」という。トトの次だからナナであり、その五十音理論でいけばもしや母の名前によっては信じがたい名前をつけられていた可能性もある。しかしどのような名前であってもナナの気が滅入ることはない。飼い主である壬己が秘密裏に気に入らないだけである。
事実、ナナと呼ばれて常に反応するともかぎらなければ、特に呼ばれなくても寄っていく時もある。それで、そのたびに一喜一憂して見せる壬己のことを間抜けだなんだと思うことはない。反応のために反応を起こそうとする頭がない。ただ行動するのみである。
「ひどいよ」
ぼそり。項垂れる壬己がつぶやいた。
ナナは薄目を開けた。ひさびさに男の低い声が白い部屋に響き、ほんのわずか耳に障ったという程度のことであり、ゆえにすぐに瞼を閉じた。そういうことである。
「言葉がきついよ。絵心は」
3割ほどしか音になっていない。残りの7割は吐息にかき消され、しかもかすかに震えている。
「そこまで言わなくても、いいじゃん」
づっと洟を啜る。と同時に「ちッ」という絵心の舌打ち。
「確かに、絵心はさ」
冷徹な舌の仕打ちを受け、壬己の声は震えるどころかうねりはじめる。
「頭がいいしさ。いろんなことを知っててさ。羨ましいって思うこともあってさ。でも僕だってさ。ひとりの人間だしさ」
にわかに、お尻のポケットからスマホを取り出す絵心。コネクタ接続タイプのゴールドピンクアクセサリが、5本、ぢゃらりと揺れる。その1本の先端には天秤座のシンボルマークが、もう1本の先端には牡羊座のシンボルマークが、さらには蟹座、乙女座、蠍座がまるで家紋のように取りつけられてあり、どうやら彼女の太陽と月と金星と火星と上昇宮らしいのだがナナが感心したことはない。かつて猫座という星座が存在したとかいうニッチな降格事情に落胆する頭ももちろんない。あるわけがない。
「そんな絵心とさ。ひとつのトピックをさ。じっくりとさ。語りあってみたいってさ。思うこともさ。あるわけでさ」
罰ゲームの頬杖をついたまま絵心はディスプレイに見入る。よりいっそうに眉間の皺を深め、わずかに拗ねているようにも見えるがナナの知ったことではない。
「だから僕なりにさ。いろいろとネットとかでさ。調べたりしてさ。絵心の琴線にさ。触れそうなものをさ。一所懸命にさ」
ぢゃら。ひときわに大きな金属音。
すると、ナナは大きく目を開けた。
「無い知恵をさ。絞ってさ」
項垂れたまま、誰にともなくぼそぼそとつぶやく壬己を尻目にもかけず、絵心は険しい表情でウェブを捲りはじめる。どんどん指のタップスピードが苛立っていく。よって、ぢゃらぢゃらとゴールドピンクが揺れる。急激に音が増える。
しばし、じっと中空の金属音を凝視していたナナだったが、こらえきれなくなったように、ぐるり、ついに絵心のほうへとまなざしを向けた。
「コピペしてみたりしてさ。メール機能に起こしてみたりしてさ。あえて文章を自分なりに変換してみたりしてさ。何度も読みかえしてみたりしてさ」
うねる低音がボリュームを増していく。
たったっ。
ぢゃら。
づっ。
ナナの双眸はくわと見開かれ、音声ではなく眼前に揺れているゴールドピンクそのものの挙動へと釘づけになっていた。
朗読は止まない。
「必死にさ。頭に叩きこんでさ。どこから語れば絵心が食いつくんだろうってさ。段取ってみたりしてさ」
ぢゃらぢゃらぢゃら。西陽の塗装される不完全な生物の輪が大きく左右へと振れる。ナナのマーキスカットの瞳が星たちの命運を追いかける──などど思うわけもないがとにかく追いかける。
「それをさ。第1声目でさ」
ぽろ。項垂れる頭の逆三角形のカーヴ、その中央の2箇所から交互に雫が落ちたがナナはもうそれどころではない。思う頭がどうのという前に見てもいない。
「第1声目で」
ぱっと見ではわからないのだが、今、ナナの全身の筋肉はハンティングの緊張感に満ちている。特に両肩と太ももの付け根の筋肉は数㎜ほども隆起し、たった数㎜だけかと言われるかも知れないが猫科の頭目としてはこれ以上にない磐石の体勢だった。
わずか、顎のタクトを左右に往復させ、
「第1声目で」
黒曜石の瞳でタイミングを測る。
「第1声目で遮らなくたっていいじゃないか!」
「うるさい!」
閃いたような咆哮をあげる絵心、頬杖の杖を90度に倒すと卓上を平手で叩いた。
ぱんッ。
乾いた音が鳴り響く。音の目の前にいたナナは発作的に飛びあがると、右の前脚をジョニーウォーカーの胴体に乗せた格好でかまえる。決して危機感をおぼえたわけでなく、とうとう絵心の気紛れなお遊戯がはじまったゾとかいう愉快な刷りこみの賜物なのだが、おそらくは誰の目から見てもびっくりしたように映ったことだろう。
「めそめそすんな!」
叫ぶや否や、立ちあがる。痩身の壬己よりも遥かに高邁な174㎝のモデル体型は、掌サイズのナナにとってはまさにバベルの塔。必然的に垂直に仰ぐ。
スマホごと壬己を指さす絵心。
「段取っただのなんだのって、それはぜんぶあんたの都合だろが!」
おかげさまで黄金色の星座は激しく揺れる。直下にいるナナの目には無限大の8の字に描かれている。
「あたしの琴線に触れる話題を提供したいわりには第1声目で遮られてるんだから要はあんたの勉強不足なんだよ!」
ナナの水晶体には黒炎すらも宿っている。
「トピックばっかり勉強してないでたまにはあたしの知性も勉強したらどうなの!?」
涙のラインを頬に引いたまま、ぎゅっと唇を結んで壬己も仰ぐ。もちろん彼はナナとは違ってアクセサリどころではなく、絵心の鋭利な瞳をまじまじと凝視しているのだがもちろんナナはそれどころではない。
「簡単に遮られるような出だしばっかり。毎回毎回……!」
絵心の声もまたうねりはじめる。ただ、言うまでもなくナナの感覚野が捕捉しているものはサウンドではなく、無限を描いて揺れるゴールドピンク以外の何物でもない。
「学習能力の無さを学習するのはもういい加減にうんざりなの!」
そう叫んでさらに力強く壬己を指すと、天秤座と牡羊座もまた力強く躍動し、なので、黒炎の瞳で、とうとう、
「ぅなん!」
ナナは、翔んだ。
──その跳躍。
引きしまった後ろ脚は、伸びているのに確かな流線を象っていた。
その華麗なるアーチは、臀部から胴体へ、胴体から後背へ、後背から小さな左の前脚へと、瞬きをもゆるさぬ速度で連動。それはまさに「光あれ」の刹那に完了していた宇宙開闢の摂理のよう。
ならば、遥かなる天空を目指し、無限につづく黄金の果てへと追いすがり、今、摂理を量るがごとくの絶好のタイミングで、うにゅ──肉球の隙間から飛び出たカギ爪は、もしや全能の神が原初の生物に与えたもうた天命の欲というものか。
否。
それは観察者である人間の盲信である。そうであればよいとする希望観測である。愚かなる無価値の文学である。
なぜならば、神などいない。
ナナのそれは、第3の力が創ったものでも、希望されたものでもない。ただそこにあるべくしてあった純粋のままのシルエット。
地図は誰が描いた?
そうではないだろう。
原初から内在していただけだろう。
たまたま筆に起こされただけだろう。
そう、ナナの跳躍もまた、あるべくしてあったエイドスのフォルム。
美しいのは当然なのである。
つまり、ナナは「美」を思わない。プラトンもアリストテレスも、ましてやカントも思わない。
思う頭がない。
まぁ、今の壬己も絵心もそれどころではなかったが。
「あんたはいつだって。いつだって……」
ぽろん。絵心の瞳からも雫がおりる。
ナナの爪はゴールドピンクの軽やかさに嫌われ、かすめただけで、またもやテーブルの大地をとらえた。しかしすぐに体勢を整える。
「いつだって中途半端なんだから!」
喉をつまらせて絵心、右手で顔を覆う。ちなみに左手はいまだに指さし中なのでナナ好みのぢゃらぢゃらぢゃらぢゃら。
ナナはあきらめない。ふたたび、
「ぅやん!」
「評価経済社会の時も。バリアフリーの時も」
蟹座と乙女座をかすめる。振り子がさらに増幅。
「ぅがぅ!」
「横溝正史の時も。パワースポットの時も」
ジョニーウォーカーを踏み台にして、
「なおぅ!」
「シャーデンフロイデの時も。東京湾の時も」
「ゎごぅ!」
「ゼノンのパラドクスの時も!」
「ぅのん!」
「ホっト、中途半端!」
「ぅなぅ!」
すると、7度目の跳躍を果たした瞬間、絵心の左手からスマホが落ちた。そしてそれはカギ爪をかすめるどころかナナの狭い額を直撃。
「ふみゃおごぐ!」
もろともに錐揉み状態となってテーブルに墜落。
しかししなやかに受け身の着地を取ったナナは、装いたての味噌汁茶碗よろしく、すいーと卓上を滑走していくスマホを追走し、ついに、
「あたしが中途半端に見えるじゃん!」
テーブルの際でようやく己の懐へとおさめた。
「なんのための恋人なんだよ!」
両手で顔を覆う絵心。
唖然と見あげる壬己。
威嚇のフットワークで獲物を小突いてみたりするナナ。
「ぇぇえぇ。ぇえぇえぇぇえ!」
几帳面な部屋に乱雑な泣き声が散らかるもナナの興味はそれではなかった。
「ごめ」
ふたたび左の前脚で弾いたとたん、スマホがテーブルから落ちた。
「ごめん」
壬己が立ちあがると同時、ごがごど──フローリングの床に衝突。音を確認するや否やナナも迷わず卓上からダイヴ。
「ぇぇぇえぇぇ。ぇえぇ!」
上弦の三日月をほうふつさせるシルエットでわずかな滞空を見せると、足音もなく床に着地。そしてテーブルの真下へとイレギュラーバウンドしていたスマホにジャ
「ごめんね」
慌てて駆け寄らんとする壬己の水色ジョガーパンツに阻まれて大ブレーキ。しかしナナも負けてはいない、みごとな体さばきで両のふくらはぎをすり抜けると改めましてスマホにジャンプ。
「ぇえぇ。ぇえぇぇ!」
「ごめんね。ごめんね」
着地の脚に弾かれたそれはまたも床を滑走。テーブルの軒下をくぐり抜け、直後、ドリームシアターのCDボックスに弾かれるとピンボールの要領でキッチンへと流れる。ナナも追走。とととと──肉球の興奮が和やかに響く。
いっぽう、
「もぅバカ嫌ぃ」
抱き寄せようとする壬己を、暫時、拒絶して見せはするものの、
「ごめんね。ゆるして」
嗚咽の入り混じる謝罪の瞳をうかがうや否や、なぜかうっとりと顔をほぐして、
「キラい壬己なんて」
絵心はその懐におさまった。
いっぽう、とととと──興味にさらされるスマホ、勢いのあるヘッドスライディングにやはり弾かれる。そしてキッチンの中央、流しの脇を激しく叩き、とうとう爽やかな速度で冷蔵庫の股下へと消えてしまった。
「嫌い」
xの値がわかっているのならば、つづく値との和を求めることはたやすい。だが、xが流動的であればイコールの手前で躊躇するのが人間の性である。ならばイコールの向こうにある値でもって逆算すればよいと思われがちだが、残念ながらそれは算数にかぎったお話。のっぴきならない現実が提示するのは常に自分だけ、つまりyだけである。ひいては、yがイコールの手前なのか向こう側なのかもわからないまま、xとは、イコールとはと思い悩むのが現実を生きる人間の業となる。しかも、連中はこぞってこの業を「勤めである」と設定したがる。勤めだと思えば苦痛ではなく修行だと感じられるからである。しかしながら勤めを共有の財産と定めては同類と哀れみあうのだから、裏をかえせばとっくの昔にxの値は出ていたも同然と言えるわけである。
それが証拠に、
「壬己なんて」
「ごめんね」
壬己と絵心は涙を流しながら抱きしめあいそして揺れている。おたがいに修行を課しあい、被虐嗜欲的に喜びあい、そしてすでに手にしているはずのxを和したり差したりして追求しあっている。
猫には無関係な寸劇なので、ナナは一心不乱に冷蔵庫の下に前脚を伸ばしている。
「嫌いだ」
「ごめん」
「うそ。反省してないもん」
ナナの脚は届かない。ゴールドのゴの字もピンクのピの字も天秤座の秤も蠍座の毒も見えない。なので15秒ほどですぐに捜索を打ち切り、あっさり覗き見行為へとシフトチェンジ。
「反省してる」
「嘘だもん」
まぁるく伏せたまま、じっと闇を覗く。
囁きあう1組の人間サマにお尻を向け、
「してるよ。反省」
「じゃあ証明してよ」
ゆったりと左右に尻尾を振り、
「どうすればいい?」
「学習してないの?」
ナナはとっととあきらめた。
「するよ。教えて?」
「ヤだ」
リビングから寝室へと遠ざかるという、意外なようで誰でもやっている謎の展開を見せはじめた1組の囁き声を尻目にかけ、すくと立ちあがると、
「教えてよ」
「いヤだ」
涼しい顔でUターン、テーブルの麓へと舞い戻り、
「絵心を教えて?」
「自習してれば?」
遥か彼方、飼い主たちのお勤めを気にかけるふうもなく、ナナは、今度は普通に飛び乗った。
ふたたびの大地。
お気に入りのテーブルは、先ほどよりも強く西陽のまばゆさを乱反射させていた。登頂して早々、ナナは薄く瞼をつむる。
ところが、やはり黒曜石はどの色にも染まらないのである。
あるべくしてあることが、ナナがナナであるための唯一無二の摂理であるならば、よもや太陽のまばゆさごときに遅れを取るナナではない。それはまるで、陽に対する陰のよう。ともにガイアの出ではあれど、役目の異なるウラノスとエレボスの関係。どちらも原初の神だが、別個にして対等の神である。
──などと、ナナは神話を思わない。蘊蓄を地の利にして優越感に酔い痴れたがるようなインテリの恣意を持たない。
思う頭がない。
ただ、ナナにしてはめずらしく、泰然自若の肉球をぴたりと止めると、なにやら懐かしそうに黄金の発端へとまなざしを向けたのだった。
黄金の夏。
ラジオも書架も屑籠も、勝手に持ちこまれた絵心の趣味たちも、行ったことのない外の景色も、あるべくしてある黄金によってことごとく滅却、存在価値を失ってしまっているかのよう。
つまり、黄金だけがある世界。
つまり、ナナだけがある世界。
仮に、目の前に展開される光景が、重厚なキネマであろうがキャッチーなラノベであろうが、不倶戴天の群像劇であろうが書評できない闘病記録であろうが、遥か彼方で繰り広げられているだろう計算づくの前衛芸術であろうが、ナナは美しいとか愚かしいとはツユも思わない。
思う頭がない。
情景描写も心理描写も禁則処理もすべて発明した彼らが懸命に試すことなのであるからして、ならば感動は彼らのもの、落胆も彼らのもの。つまり、壬己と絵心の心象もまた彼らの分析するところであり、ここまでの超日常的な鍔競りあいをナナがとやかくと批評するはずもない。
ナナは、猫である。
掌サイズの猫である。
世界にあるという、そういう生き物なのである。
そこに居たいとか、そう有りたいとか、ナナはちっとも思わない。
思う頭がない。
彼らがおたがいに己の居場所を求めあっているかぎり、いや、己の居場所を知られないことこそが彼らにとっての至上の醍醐味である以上、彼らなど永遠に存在しないも同然である。なかんずく、xの値を獲得しているのにも関わらず、イコールをプロセスに置換し、たんまりと堪能してばかりで解を求めようともしないようなあの2人など。
ナナに解法は不要。
強いて言うのならば、ナナが解答である。
むろん、ナナは強いて言うことをしない。あくまでも、彼らにとってナナが解答であるということであり、むろん、ナナはそんなことなど知ったことではない。
思う頭がない。
ただ、そこにあるだけである。
黄金の世界があり、ナナがある。
「ナナもある」ではない。
「ナナがある」。
くんかくんかと嗅ぐ。図書館の香ばしい風味が広がっている、空気が乾燥している──とナナは思わない。そもそも図書館に行ったことがない。
しばしの俯瞰にももう飽いた。ふたたびナナは視線をテーブルの地平線に戻す。すぐ目の前に横たわっている透明な輝きをとらえた。
テーブルのまんなか。
ジョニーウォーカーの空き瓶。
ナナのお気に入りのポジション。
そして、頭を低く、お尻を高く、ぐぅとひとつ伸びをすると、馴染みの冷ややかな胴体を抱えこんで次第に身体を丸めた。
無音。
2が1になるやならぬやの前衛芸術の音は、確かにこちらにも届いてはいるが、もうナナの耳には響かないようだった。
壬己を壬己とは思わない。
絵心を絵心とは思わない。
彼らを彼らとは思わない。
彼らがどうとも思わない。
ナナはナナであり、また、ナナがナナであるということをナナはついぞ思わない。
それが猫の勤めだとは思わないし、そんな自分をお気楽の風来坊だとも思わない。
思う頭がない。
ただ、まぁるくある。
そう、なんの変哲もない世界のまんなかで、ナナは、まぁるくある──ただそれだけ。
【 終わり 】
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