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その瞬間だった。
どうしても「おめでとうございます」の言葉が口から出てこなかった。
喉元まで出てきているその言葉を伝えることを何かの強力な力が働いて、それを許してくれない。
それは俺の本音の力だった。
前もって用意した建前の「おめでとう」をその力が全力で拒む。
「…どうかしましたか?」
落ち着いた声が耳に入ってきた。その声についに俺の建前は儚く崩れさる。
俺はギュッと胸が締め付けられ、そして力強く目を閉じる。
そして声を振り絞って、静かに口を開いた。
「…ごめんなさい。実は1番のタバコは売り切れてて…」
咄嗟に出てきた言葉は精一杯の嘘だった。
1番のタバコは売り切れてなんかいない。現に棚には沢山ストックがある。
「…」
それでもかまわずに震える声でおじさんに嘘の説明を続ける。
「申し訳ないんですが…明日なら…明日ならあるんで、明日…また来てもらえませんか…?」
それは俺の本心でもあった。
おじさんに明日もこの店に来てもらいたかった。
この1番のタバコを買ってもらうまで、毎日来て欲しいと心底思った。
ただ俺はおじさんの顔を見ることが出来ず、俯く。両手をぐっと握りしめ、涙が勝手に溢れ出てきて、懸命に抑えてた気持ちでさえ真一文字に閉じた口の隙間から溢れ出して止まらなかった。
「…ありがとう」
少しの間を置いてから、優しい声が聞こえてきた。
思わず俺はおじさんの顔を見た。おじさんは優しい笑顔を俺に向けていた。
「君が私のことを心配くれていたこと、気づいていたよ。心配をかけてすまなかったね。でもね私は毎日、この時間が本当に楽しくて仕方なかった。素敵な時間をどうも、ありがとう」
そう言ってくれたおじさんは再び俺に笑いかけると、ゆっくりと手を僕に差し出した。
俺はその手を握り、声にならない言葉で溢れ出して止まらなかった気持ちをただただ伝えた。
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