8/10
前へ
/10ページ
次へ
本当に父さんが死んだのかどうかまだ信じられなくて、考えながら家に帰った。いつもより身体の中が静かで、風のざわめきや、木々の揺れる気配や、雲が蠢く不気味な音や、自然物全ての存在が身体に迫ってくるようだった。感覚が鋭敏になっている。やけに空の白さが鮮やかだった。父さんが死んだってのに、こんな穏やかな気持ちでどんな反応をすれば良いんだろう。  マンションの前に着く。家を出た時と特に変わった様子はなく、本当は普通に帰宅しただけじゃないか。別に何も起こっていないんじゃないか。そんな思いで玄関を開けると、ああ、やっぱ違うんだなと諦めた。数人のスーツを着た知らない人たちが、低い声で母と何か話し合っていた。僕は母の顔を見て、すぐに顔を逸らしてしまった。僕が母さんの顔を見ていたと、母さんに気付かれてはいけない気がしたのだ。  そんな時間も長くは続かなかった。 「ゆうき、おかえり」  スーツを着た人が振り返って、頭を下げる。僕も頭を下げた。 「お父さん、畳の部屋にいるから」  何も言えず頷く。自分の家なのに、よそよそしい雰囲気だった。早く家に帰りたい。家にいるのにそんなことをふと思った。早く家に帰って、ベッドに顔を埋めたい。日常が、恋しかった。 奥の畳の部屋に入る直前、白い大きな箱が見えた。それが何なのか、疑問を抱く前にすぐ分かった。初めて見た、お棺だ。意外と大きい。父さんは、その中に入っていた。そこに父さんはいたが、まるで父さんじゃなかった。初めて見たような白い着物を着て、手は前でしっかり組まれていて、こんな行儀の良い父さんは父さんじゃない。顔も穏やかで、まるで他人の寝顔を見ているようで、最初から父さんはいなかったみたいだった。  ああ、僕って父さんの死体を前にしても、こんな感情しか湧いてこないのか。ほ本当に、非情な人間だ。以前からあらゆる出来事を前にしても気持ちが動かなかったり、「どうでも良い」と思うことが多く、僕には人間として大切な何かが欠けているんじゃないかと自分自身を疑っていたが、ここまでくるとどうしようもない。  それから数日後、父さんは焼かれ、骨だけになった。後から聞いた話だが、父さんは色んなものを抱えていたらしい。土木業の中小企業の社長だった。全てをコーヒーとタバコに託して、飲み込んでいたのかもしれない。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加