第1章

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寺というのは不思議な空間である。 やはりそこは、仏が支配する世界であるからだろうか。良きものも悪しきものも、お互いにどこか譲り合える束の間の『偽善』が存在している。 去年の4月、長い闘病生活の末に息を引き取ったお袋も、今ではここの住人である。 月命日はすべて天気に恵まれているが、その日に限って住職は寺に居り、有難いことに御自ら、線香としきびをお渡し下さる。 住職とマンションの管理人の俺に対する視線は同類で、それを好意的に受け入れるには、いささか俺は擦れていた。・・・要するに今、俺は『失業者』なのであるから。 水を張った手桶と柄杓、煙たなびく線香と仏花を手に参道を進む様は、赤く変色したカラーフィルムとシネマスコープで映しだされる古い日本映画のひとコマを意識させる。 我が家の墓より一列手前に差し掛かった時である。それはちょうど参道沿いに面している墓だった。 その墓前で“あの女”が手を合わせていた。 目を閉じ、無心に祈っている。 それは余りに唐突で、意表をついた、不似合いな・・・心をえぐられる光景だった。 女の祈りには、俺に豊かな想像をさせる時間があった。 二区画以上はあろうかという敷地の、左右に対をなす墓前灯籠。 古く貫禄ある斑な石柄の墓石には、真新しく豪華な仏花が供えられているが、女は花など持っていなかった。 線香が手向けられていないので、寺務所には立ち寄っていないのだろう。 そしてあの缶コーヒーが、水鉢の横にそっと置かれている。缶の柄が不釣合いではあるが、 むしろそこに女の良心が現れている。 女はこの墓の一族の跳ね返り娘なのだろう。 昨日は日曜だ、きっと先祖の法事が執り行われたに違いない。しかし女は呼ばれなかった・・いや、自分から拒否したのだろう。 とは言え女が拒否したのは、重箱の中身の様な煩わしい親類縁者の面々であって、決して供養を受けた先祖ではないはずだ。 だからこそ法事の翌日、モデルだか踊り子だかの仕事の合間に女はこうして一人、手を合わせに来たという訳だ。 女の祈りは熱心でも、線香の煙を揺らす微風に容赦はなく、馬鹿な想像をしていた俺は とうとうそれにむせてしまった。 すると、女が祈りから醒めて俺を見た。 珈琲店で確認したより、遥かにいい女だった。 だが女からすれば、俺は初対面の男なのだ。 俺は静かに、シネマスコープの端へ身を引くより他はなかった。 『待ちかねたぞ、由良の助!』
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