第1章

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「カケルくんはお母さんとも、もう連絡を取る気でいて、その、お姉さんは私に任せると。私、その冊子を旅行会社に渡す用事があったので、そのついでにこちらに参りました」 そして、話は済んだとばかりにそそくさと立ち上がった。本当に忙しない男だと思う。山小屋のオーナーって、もう少し大らかなんじゃないの?  けれど、悪い印象は無かった。今回彼は、一番の貧乏クジを引いて、ネネに説明に来てくれたのだから。  オーナーを先に帰して、ネネはもう一杯コーヒーを注文した。今度は少し酸味の強いキリマンジャロが、イギリス製の濃紺のカップになみなみと注がれて置かれた。冷ましながら口を付けてクイッと飲むと、カップの内側に描かれた、鮮やかな深紅の薔薇が顔を出した。周りを見渡すと、隣で勉強をしていた男も、窓際に座っていた学生もいなくなっている。面接をしていた二人の席には、スーパーのビニール袋を置いた若い女性が小さなプリンを食べながら携帯をいじっていた。ネネは残ったコーヒーを飲み干し、プラスチックの筒にささった伝票を持って立ち上がった。   会計を終えて、ギィ、と重みのあるドアを開け、ふと振り返って店内を見た。すると、嗅いだことのある匂いが鼻をくすぐった。その匂いをひと呼吸すると、正面の壁に新しい写真が浮かび上がってくるのが見えた。ネネは驚いて凝視したが、確かに浮かび上がってきたのだ。遠くて確認が難しかったが、それは女性の肩ごしに、男性が座りながらコートを脱いでいる写真のように見えた。他の写真にも目を移すと、若い男がコーヒーを飲みながら参考書を繰っている茶色がかった写真があった。それが、ネネの目の前で壁に埋もれるように消えていった。コーヒーの置かれたテーブルにノートが開かれ、うたた寝をしている女の子、そしてサラリーマン風の男女の写真もそれに伴い消えていく。 「どういうこと?」  驚いて店を出かねているネネに、笑みを浮かべたウエイトレスが寄ってきた。 「お客様、忘れ物でございます」  小さなビニールパックを渡された。中には、今挽かれたばかりのコーヒーの粉が入っていた。  家のチャイムを鳴らすと、鼻っ柱の強いマグがウオーンと鳴くのが聞こえた。鍵がカチャリと回され、母が顔を出した。泣きそうな顔をして、玄関に棒立ちになっていた。これまで付けたことのないエプロンを付けている。 「ごめんね」
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