第1章

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 隣の若い男はテーブルにたくさん付箋の挟んである参考書を数冊並べ、しきりに色のついた薄いシートでページを覆っていた。資格の勉強をしているのだろうか。開かれていない本の表紙や背表紙をさりげなく見ると、‘税理士簿記論’‘空き家の方程式’などと書かれてあった。しきりにシャーペンを動かしているので、時間を訊こうにも話しかけづらい雰囲気だ。しばらく横目で見ていると、「ふう」と息を吐いてペンを置き、テーブルの左手上に置いてあったコーヒーカップに手を伸ばした。ネネはまだ幼さの残る横顔をそっと見ながら、コーヒーを飲み終わったら時間を訊こうと身構えた。  コクコクと、喉が動く。カチッとソーサーにカップを置く音がしたと思ったら、途端に参考書を持ち上げて食い入るように顔をうずめている。 「なにい!」  その様子はまるで書かれてあることが間違いのような怒り方だった。 「なんでそうなるんだよ」  小さい声で怒り始めた彼に、ネネは時間を訊けなかった。困ったと思い、首を巡らせる。左の窓辺の席には、まだ学生らしい女の子が眠そうに目を細めながら、これまた何かの勉強をしているらしかった。彼女の柔らかそうな黄味がかった肌色に春の日差しが反射している。三十近いネネだったら紫外線を気にするところだが、まだその肌は明るい陽だまりをなめらかに滑らせて弾いているように見える。彼女の手にしたカップは、遠目にも柄が分かった。あれはオーストリア製のアウガルテンだ。白地に、珍しい緑色の大きな薔薇が一輪横たわっている。先ほど隣の男に目を向けたときも思ったが、ここでは客の飲んでいるコーヒーカップが皆違うのだ。隣の彼が手にしていたのは、トルコ製で厚みのあるカップだ。青い磁器に赤や碧、金色の細い線が縦横無尽に入っている。ネネの手にしているのが韓国製のベージュの柔らかい色のカップで、薄ピンクの小さな花が一つ咲いていて、これまた小さな薄緑の葉を付けていた。
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