第1章

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 男はメニューを受け取りながらも開かずに注文し、そのままメニューを返した。そして「では、ですね」と話し始める。 「あのーコート脱いでも大丈夫ですよ」  あまりの落ち着かなさに、ネネは少し息を整えるように促した。 「あ、そうですね。失礼しました」  男は座ったままコートを脱ぎ、コートは男の背中と椅子に押しつぶされた。  あまりにも忙しないので、このあと別件があって急いでいるのかと訝しんでいると、運ばれてきたコーヒーに口をつけ、満足げに飲んで息を吐いている。 「これ、炭焼きですね」  炭焼き…どこかで聞いた言葉だ。 「はあ…」 「カケルくんが色々な豆を仕入れて焙煎してくれるんですよ。独自のルートを見つけたらしくて。確かザンビアだったか…」 「カケルって、今何してるんですか」  ネネは少し強い口調で男の言葉を遮った。この一年間、心のどこかでずっと気にかけていた思いに対して、説明が無いのが気に入らなかった。 「ごめんなさい」  男はネネの怒りを受け入れ、素直に謝った。そしてネネを見つめた。 「お母さんはご存知のはずです」 「え?」  男の話はこうだった。  カケルは仕事を辞めて、父だった男のところで仕事をしたいと母に言っていたらしい。自分の父が山小屋のオーナーをしているなんて、ネネは初めて知った。カケルは登山仲間を通して父のことを知ったのだという。  母からすれば、父から養育費も受けずにここまで子どもたちを育てて、手がかからなくなったところで横取りされた気分なのだろう。猛然と反対したそうだ。  ネネは、自分も山小屋のオーナーだと名乗った男に再度訊いた。 「母が警察に行方不明の届け出をしたのは…」 「えーと…嫌がらせだと思います」 「嫌がらせ?」 「事を大きくしたかったんじゃないかな、と…」  ネネは力が抜けて、背もたれに凭れた。なるほど、登山仲間もみんな知ってたのか。なんでも理路整然と説教したがる姉の口や行動を封じるために、みんなで力を合わせたんだろう。勝気な母は事を大きくしたが、それに伴い自責の念にもかられ、体調を崩した…何をやってるんだか。娘にも恥ずかしくて言えなかったのだろう。 「何やってんだか」  思わず口に出して言った。そんなネネを見て、オーナーはニコリと笑って残りのコーヒーを飲み干している。 「こちらがそのヒュッテになります」 そう言って、小冊子をネネに渡した。
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