何かがおかしい

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「……でも、佳彰」 「ん?」 「私たち、お金ないよ?」  ーー妊娠を誰にも、子どもの父親である佳彰にすら言えなかった理由は、それだった。  うちは、お世辞にも裕福とは言えない。  住んでいる場所は賃貸のアパートで、リビングダイニングと寝室が分かれているけれど、はっきり言って狭い。子どもを育てるスペースは無い。 「佳彰は社員だけど、私はパートだから産休や育休は取りづらいと思う。もし使えたとしても、この近所には保育園が無いし、親元も離れてるから職場復帰なんてとてもできないよ!」  家計だって毎月ギリギリだ。一生懸命働いているけれど、収入は変わらないのに支出だけ増える。  だから、結婚五年目で断念した。  子どもを持つのは無理だ、と。  ちゃんと話し合ったことは無いけれど、完全に諦めていた。  ーーそのはず、だったのに。 「それが、どうした!」  佳彰が強い口調で言い切った。私の迷いを一刀両断するように。 「確かに、金が無いのは重大なことだけど……そんな理由で、俺たちのところに来てくれた子どもを諦めたくねーよ。諦めたくねーんだよ!」  声を振り絞り、頭を深く下げて。佳彰は私に懇願した。 「子ども、生んでくれ」  今まで以上にがんばるから。  必ずいい父親になるから。  佳彰の後頭部を見ながら、私はぼんやり思った。 (……結婚式以来だ)  佳彰が、私に誓ってくれたのは。  堪えきれずに、私は佳彰に抱きついた。  子どもみたいに泣きじゃくる私の背中を、彼は優しくさすってくれる。 「……っ、諦めろって、言われるのかと思ってた……!」  授かった命を。  親になることを。  許してもらえないと、勝手に思ってたバカな私を、佳彰が軽く小突く。 「言うわけねーだろ、そんなこと。……ホラ」  そう言って、佳彰がずっと持っていた小さな手提げ袋を渡した。  リボンと飾りを外し、麻袋の口を開ける。  中には、コーヒー豆の袋が入っていた。  ふんわりと香ばしい香りが鼻をくすぐる。優しい色合いのパッケージには、心があたたかくなるような黄色いタンポポの絵が描かれていた。  “たんぽぽコーヒー”  “ノンカフェイン 妊娠中の方も安心”  その文字と、佳彰の笑顔を交互に見やった私は、微かに笑って、また泣いてしまった。
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