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月見の間に入ると、菖蒲は侍女を手伝って生け花の準備をしていた。道具の並びがまだであったが、私が来たことで侍女は黙って下がった。
開け放たれた月見窓の向こうは薄闇に溶け込んでいた。黒とも灰とも言えぬ空に白い月が満ちている。
菖蒲は部屋の隅の間接照明に光を灯してから私の前に正座した。
静寂の気を纏い私は動き始める。
鋏が鳴り、高音がいつまでも空気を揺らした。螺旋を巻く渦を感じる。しかし心は無心に近い。花に向ける意識にだけ集中していた。
落ち着きのない菖蒲もこのときばかりは口を閉ざし、息を殺している。
私が花だけ見つめているとき、菖蒲が何を見て何を思っているかは知らない。
神秘的なほどまっすぐに伸びた茎を剣山に立ててゆく。
派手な飾りはいらない。時間を費やさず、たった三本立てただけで私の作品は完成する。
私が菖蒲を見ることで菖蒲は終わったことを悟るが、しばらくは静寂から抜け出せず花の立ち姿に見入っていた。
器の正面を菖蒲の方に回す。
「どうだ?」
そう訊ねると、菖蒲ははにかむように微笑む。
「綺麗です、すごく。池のほとりで本当に咲いているみたい」
菖蒲の感想は単調だ。すべて「綺麗」でまとめてしまう。
書道、茶道、華道の教室を開いているが、菖蒲のような稚拙な感想を述べる生徒は一人もいない。想像力豊かで大袈裟な感想を言う者が多かった。
菖蒲の言葉は単調であるが邪気がない。素直な心情を臆することなく開示する。
「菖蒲の番ですよ」
「はい」
菖蒲は長い袖を肘まで捲し上げ、やや力の入った肩で鋏を持った。
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