夕暮れに待つ

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 菖蒲と初めて出会ったのは今と同じ時節―――。庭に藍色の花菖蒲(はなしょうぶ)が咲き誇っていた。 「父上、今なんと申されました?」  自室に下がって一刻と経たぬうちに、私は来客のいる応接室に呼び戻された。  席はサイドの一人掛けしか空いておらず、私が腰掛けたのを見計らって父が何食わぬ顔をして言った。 「時雨。こちらはお前の許嫁になる」  指し示されたところにいるのは、見目は愛らしい中学生だが、小柄ながら立派に詰め襟の学ランを着ている少年だった。 「なんのご冗談ですか?」  既に二度聞いてしまった後で冗談も何もない。父は真剣だった。父だけではない、母も、対面に座る紳士も、笑みを絶やさない中学生も。  何一つ理解できていなかったのは私だけだった。  まるで始めから決まっていたような話しぶりだったが、実際は私が自室に引っ込んでいた間に決まったらしい。  来客の紳士と中学生は、はじめから縁談の申し込みに来たようだ。年頃の子供は男子しかいないというのに、その時点でふざけた話であるが、厳格な両親が来客の話に耳を傾けたのは彼らが旧摂家の血筋だったからだ。  摂家とは鎌倉時代に摂政関白を任せられ君主に変わり国事行為を代行した。明治維新後は公爵の階級を得て政治に介入し、天皇家との繋がりもある由緒正しき血筋である。  そんな方々を前にして、両親は彼らの言葉を真摯に受け止めたという。それが両家子息の縁談だ。
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